地下鉄駅から出た歩道の間際の交差点を右へ曲がりますと、そこは道路拡張で拡がった部分は、大層広い空き地になってましたが、大部分はまだ昔からの趣を残した道幅の狭い商店街でした。早朝ですので、低い軒を並べた両側のお店は、未だしっかりと戸が閉まっておりました。既にここはもう筒井町でした。各店の軒先には垂(しで)の付いた縄が張られており、お祭りの雰囲気が感じられました。*画像は、クリックしますと、拡大します。尚、ブラウザー左上の戻りの←をクリックして見聞録に戻って下さい*
筒井町3丁目、4丁目と電柱の住所札を頼りに進むと、広い道路に出ました。交差するその道路の左を見ますと、筒井町商店街の大きな道路横断看板が眼に入りました。後で知ったのですが、この東西に伸びる商店街が筒井町の中心道路で、神皇車と湯取車の2台の山車が巡行する場所でした。交差点を左折して歩くとすぐに、右側に筒井小学校があり、ずらり並ぶ両側の商店の各戸口には、筒井町天王祭のポスターが、掲示されてました。
そして、暫く進むと右側に大きな幟が立っておりました。何だろうと近づくと大きなお寺の門前でした。道路より7、80メートル入った所の立派な門は建中寺の山門でした。尾張徳川家代々の菩提寺であった建中寺は、歴代藩主も参詣した格式ある寺で、筒井町は門前町として繁栄した下町であったとのことで、その名残が感じられます。
今回の筒井町天王祭の見学を予定したときに、幸運にも知人を通じて、神皇車保存会の会長さんを御紹介いただけましたので、予め、訪問見学の目的をお伝えして、祭礼当日に見学の便宜をお計り頂けるとの、有り難い了解を頂いておりました。会長さん宅は建中寺のお側と伺ってましたので、早速、ご挨拶に伺うことが出来ました。
その時、会長さんから、町の若い者が隣町の出来町へ祭礼の挨拶に行くので、私も同行したらとの、お誘いがありました。丁度、筒井町と同じ東区の出来町、新出来町、古出来町の3町も、筒井町と同じ日程で、天王祭が行われることは、承知してましたが、今年は、筒井町だけと諦めてました。でも、少しだけでも見学できたらと、祭り半纏もお借りして、町の皆様の仲間にして頂いて、早速、出掛けました。
道中、祭りのこと、山車のことなど、いろいろと教えていただきした。実際に祭りに係わっておられる方々のお話は、面白く、役に立つことばかりで、見聞録を纏めるときに、助かります。徳川美術館方面に向けて歩いてますと、山車囃子が聞こえて来ました。新出来町の鹿子神車(かじかしんしゃ)でした。祭り半纏に"西"をデザインした西之切奉賛会(保存会のようなもの)の山車でした。
私は、ここで、初めて名古屋型山車を肉眼で見たわけです。本や雑誌、4月の犬山祭りの帰りに寄った徳川美術館の掲示品やパンフレットで、名古屋型のなんたるかの様子は、知ってましたが、こうやって現物を鑑賞することで、知識が裏打ちされて、身に付く思いがしました。そして、豊な気持ちにもなれます。百聞は一見に如かず、ですね。
僅かな時間の出来町見学でしたので、内容は次の機会に譲ることにします。帰り道でも皆様と、名古屋型と知多型との違いや時代の背景などの山車談義の華が咲きました。皆さんが山車好きの人ばかりですので、山車の話につい夢中になるほどでした。帰り道の途中で、納庫(のうこ、山車の倉)へ寄りました。神皇車を出して、本陣のある建中寺山門前へ山車を曳行するのです。
建中寺山門の丁度、向かって右隅に"社" やしろがありました。御神灯が飾られ、神木に囲れたお宮で、筒井天王祭の氏神様でした。筒井町山車のひとつである神皇車の保存会発行の冊子"神皇車"の年賦によりますと、1953年、昭和28年1月「御天王様建中寺門前へ新築遷座式」と、あります。このほか、筒井町4丁目の情妙寺前にも天王様の社があります。ともに、須佐之男社です。
午前10時、神皇車を「納庫(のうこ)」から曳き出して、午前10時40分、建中寺山門前に駐車しました。山門の前、御天王様の社の隣りに本陣が設営されてました。山車倉を「納庫」と呼びます。半田市は「さや」でしたが、各地の文化の違いは呼称でも現れてます。駐車した山車の飾り付けを行います。
前日の宵山で、山車を曳き出してましたので、楽屋の清掃もします。前棚の榊や垂(しで)の取り付けや、からくり操作の点検です。出発までの間、人形の顔が汚れないように頭からスッポリと袋で覆ったりもしてました。
そして、準備万端整えられて、午後1時過ぎの山車巡行の出発を待つばかりです。