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東の西陣 伝統の織り物の"まち" 群馬桐生に、"鉾座 ほこざ"が誕生!

 

 平成12年4月28日、群馬県桐生市に「あーとほーる鉾座」がオープンしました。翌々日の30日の日曜日に、早速、鉾座を訪問しました。
この会館は、桐生市本町四丁目商店街振興組合が、中心商店街の活性化と集客アップを目指して、2年の歳月と2億8千万円余りの巨費を投じて建設したものです。

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「あーとほーる鉾座」のイベントホールは、高さが15メートルもある吹き抜けになっており、本町四丁目に伝わる桐生祇園祭ゆかりの明治のはじめにつくられた鉾(山車)と屋台が常設展示されております。展示されている屋台の広い踊り場が、踊りやライブのイベントのステージとしても使われるのだそうです。その他、会館の二階には音楽やダンスの練習や、ミニライブなどに使用できる防音スタジオも併設されており、幅広い人達の交流の場として期待されております。

桐生市中心街の略図です。

JR桐生駅からあーとほーる鉾座へは、駅前の通りを右に出て、第一勧業銀行の角を左へ進むと、鉾座の前になります。駅からゆっくり歩いて12分位です。
"桐生市とはどんなところ?" ここで、概略ご紹介しますと・・

 どなたも、小中学校の社会や歴史の教科で教わったことですが、桐生市は北関東の織物の"まち"として、発展してきました。鎌倉時代の始め頃から、10代、220余年の長い間、この地を治めた領主は桐生氏でした。桐生氏の中興の祖と呼ばれた桐生国綱が初めてこの地に築城し、領土を拡張し、よく民を治め、織物を奨励したのが機業地としての興りであったそうです。天正元年(1573年)桐生氏滅亡のあと、徳川の治世下になってからも、桐生は絹市の開始もあり、機業技術の革新と進歩で、益々繁盛した織物業で、桐生の町は都市形態も整えられ、次第に産業都市へと発展した。結果、絹織物では、京都西陣と肩を並べる迄にもなったのです。桐生と江戸、京都との間の人と物の往来で、京や江戸の先進の生活文化が、桐生の地にももたらされたことは、容易に想像できます。 江戸時代は勿論、明治以降になっても、織物業は繁盛し、人口も昭和十年には9万人を超え、全国150市の内、第50位内になって、全国でも有数な都市になっておりました。

桐生市図書館蔵「桐生市郷土読本」(昭和14年3月15日発行 桐生市教育会 編纂兼発行)参照

 そして、桐生は高校野球でもお馴染みです。そうです、まだ皆様もご記憶のとおり、 平成11年の夏の甲子園の全国高校野球選手権大会で、 14−1の大差で、岡山理大付を破って、全国制覇を遂げた正田投手の私立桐生第一高等学校は桐生の学校です。昭和30年の春の選抜大会では、県立桐生高が浪花商と決勝戦で戦い、惜しくも準優勝となってます。その時の投手の名前が今泉であったことは、今でも同じ年齢の私の記憶から消えません。昔の旧制中学時代に、桐生中学(現県立桐生高)は甲子園へ、春夏合わせて十数回も行っております。新制高校になってからも、桐生高は、甲子園出場が12回という文武両道の有名校になっております。最近では、桐生工と桐生一が郷里の代表として、甲子園の常連になってます。高校野球が強いのも、伝統的に江戸東京との文化面の繋がりが深いせいなのかも知れませんね。
もうひとつ、桐生には、これも日本一の大手のパチンコ機器メーカーがあります。

桐生市への鉄道と道路図です。

○東武伊勢崎線・特急りょうもう号 「赤城」行き 浅草〜新桐生 1時間45分
○JR両毛線 高崎〜桐生 40分 桐生〜小山(おやま) 1時間
○上毛電鉄(じょうもう) 京王井の頭線の 車両が活躍しています 中央前橋〜西桐生 50分
◆桐生駅では両毛線とわたらせ渓谷鉄道が連絡、 赤城駅では東武線と上毛電鉄が連絡
◆東京方面から桐生市へ行くのに一番わかりやすい交通機関は 東武伊勢崎線・特急りょうもう号「赤城」行きです。
全席指定で、浅草−新桐生 片道\2,300 所要時間は1時間45分
列車の本数は1時間に1本程度 主な停車駅は浅草−北千住−館林−東武足利市−太田− 薮塚−新桐生−相老(あいおい)−赤城
乗車券の発売は1ヵ月前から。 当日でも切符を買えますが 土日祝などの朝夕は売切れの場合があります。

  あーとほーる鉾座で、桐生伝統芸能 "からくり人形芝居"の上演!

 あーとほーる鉾座のオープンを記念して、桐生の伝統芸能の「からくり人形芝居」が行われておりました。正直に申して、これまでに山車研究家諸氏の書物の記述を読んだり、祭り愛好者仲間からの伝聞などから、桐生の山車(鉾)と屋台は、日本の祭礼の曳きものを研究する上で、貴重な存在であるとの認識は持ってました。唯、今まで実物を観る機会がなかったので、このほど平時にそれが見られる鉾座がオープンしたのは朗報でした。ですから今回の鉾座訪問は、山車と屋台のことしか頭にありませんでした。鉾座に入館したら、館内は映画館のように暗く、照明で浮かんだ特設舞台で、「曽我の仇討ち」のカラクリ芝居が進行中でした。

 受付で貰った「桐生からくり人形復元のあゆみ」と題したチラシに、次ぎの説明がありました。
 「江戸文化の名残を留める"桐生からくり人形"は、桐生天満宮御開帳で公演したもので、平成元年、人形が民家の蔵から発見され、その保存と復元に桐生からくり人形研究会の有志が集い、この程、曽我兄弟の人形芝居を復元したものです。芝居仕立ての人形が、かっては水車を動力源としていたが、現在は電動で一連の芝居の場面を上演します」。

 カラクリ人形としては、これまでに実物を観ていたのは、岐阜の高山、愛知の犬山、名古屋そして半田の各市の山車に載っていた「山車カラクリ人形」だけでした。舞台の上を移動しながら、演技するカラクリ人形を観るのは、私は初めてでした。カラクリ人形に付いては、「山車カラクリ」「座敷カラクリ」「芝居カラクリ」の分類があることは承知してましたが、今まで現物を見たのは、山車カラクリだけでした。

 カラクリ芝居上演終了後、館内の説明員の話ですと、江戸時代に江戸、大阪など中心都市で行われていたカラクリ人形芝居を、曲がりなりにも復元上演できたのは、ここ桐生市が最初だそうです。1丁目から6丁目まである長い本町通りの最も北に桐生天満宮があります。この天満宮の御開帳の飾り物として上演されたのが、桐生からくり人形芝居の興りであった。

 天満宮の御開帳にともなうカラクリ人形芝居は、江戸時代の寛永年間に始められ、昭和36年を最後に、計8回行われた記録が残されている。江戸の文化のカラクリ芝居が、桐生の織物技術と結び付き、桐生の地に根付いたと云える。江戸と桐生の織物を通じての深い関わりがあっから、と想像できます。

 以上の係員の説明からも、江戸の先進文化が、織物業の繁盛地というの地域性のおかげで、桐生への伝播が容易であったと思います。江戸・明治時代を通じ、桐生は文化的水準が高かった事、江戸東京からの距離も情報の人手に有利であったこと、 商業、産業の活動が活発で財力もあったことが、江戸や京都の伝統文化が桐生に移入され、今では貴重な伝統芸能として、現存することの意義は、極めて高いと思います。このことは、この後に見聞した本町四丁目の鉾の人形「素戔之命」が、江戸時代の有名な人形師、松本喜三郎の作であることからも、頷けます。

 掲載のカラクリ人形の画像は、曽我兄弟の人形と忠臣蔵討ち入りの人形です。ともに、鉾座の屋台の舞台に陳列展示されていたカラクリ人形です。曽我兄弟の人形は、当日、鉾座で上演されていた「曽我の仇討ち」の人形とは別のものです。顔やボディーの人形作りから、舞台の屋形製作、人形の仕掛けや衣装など、「桐生からくり人形研究会」の皆さんの製作のものだそうです。

 人形の着る衣装が豪華です。今も、伝統の桐生織物技術が脈々と生きておるのを感じました。  「桐生からくり人形研究会」が発信するホームページを紹介します。桐生からくり人形のことだけでなく、日本のカラクリ人形の歴史が、詳しく解説してあります。ここクリックして、ご覧下さい。

 わぁ〜、すごく大きいなぁ! 鉾座に展示の本町四丁目の"鉾と屋台"

 からくり人形の公演が終わって、館内が明るくなりました。入館した人は、真正面に、大きな破風屋根を載せ、横幅の広い大きな四丁目屋台が眼に入ります。 既にご紹介したように、あーとほーる鉾座は、イベントホールとしての用途で建築されてますので、本格的な舞台照明や音響装置が備えられております。常時展示される本町四丁目の屋台の舞台がステージになっており、ロックコンサートや歌謡ショー、漫才落語の寄席や舞踊、室内楽の演奏会などが、次々と予定されておりました。今回のカラクリ人形芝居の公演は、あーとほーる鉾座のこけら落としのイベントにふさわしく、地元桐生の伝統芸能のカラクリ人形の復活公演を選んだのです。カラクリ人形芝居は鉾座のオープン初日から三日間だけの公演で、常設の公演ではありません。

 画像をクリックしますと拡大し、屋台と鉾の解説があります。 

そして振り向くと、その屋台に向かい合って、四丁目の山車である"鉾"が、まさに聳え立つ巨木の様に、峻厳とした姿で見る人に迫って来ます。実に均整の取れた風格のある美しい姿の鉾です。

「あーとほーる鉾座」を初めて訪問した4月30日は、オープン後初めての日曜日で、イベントのカラクリ人形芝居の最終日でもあったので、終日 見学者が多く、展示の屋台の舞台の上には、カラクリ人形や芝居の屋形が展示されており、鉾は大勢の見学者が取り巻いて居たので、屋台と鉾の写真撮影がうまく出来ませんでした。ここに掲載の屋台と鉾の画像は、その後の5月13日に、再度 鉾座を訪問して、開館間際の見学者のおらない時に撮影したものです。

 あーとほーる鉾座の中で、展示の鉾と屋台の解説をされておられた方から、桐生の祇園祭と屋台、鉾などについて、いろいろと詳しいお話を伺うことができました。 奈良彰一氏です。奈良氏は、桐生市本町四丁目で、文系古書、出版、版画、手織草木染めを扱う"書肆画廊(しょしがろう)"を経営なさっておられます。

 奈良氏は本業の傍ら、祭礼の山車、屋台に造詣が深く、とりわけ桐生の鉾と屋台の研究者として知られ、祭礼愛好者や山車屋台研究者が、関西方面からなど、全国各地から、奈良氏を尋ねて来られます。

 これから記述掲載します本町四丁目を含む桐生市現有の2基の鉾と6基の屋台の解説は、鉾座見学当日に、私が奈良氏から伺ったお話と、鉾座の受付で貰った表題が「鉾と屋台の解説 桐生祇園」のパンフレット(解説者は同じく、奈良彰一氏)の中から、全文または抜粋の引用の了解を同氏から頂きましたので、これからご紹介します。

本町四丁目の祇園屋台って、どんなもの?

 現在、関東各地に分布する屋台は、江戸天下祭りの付け祭りとして、山車とともに街中に曳きだされ、娘、こどもの踊りを披露した踊り屋台が、江戸周辺の地方に取り入れられ、発展していったと、考えられます。なかでも、北関東地区は、養蚕を中心にした五穀豊穣を祈願した祭礼も多く、付け祭りの屋台が各地で造られたことが、伺えます。

画像をクリックしまと、拡大します。

この屋台は、桐生市にも近い群馬県尾島町世良田地区に現存する江戸時代の文化年間に造れれた屋台で、大門町と今井地区の祇園屋台です。世良田には計8台の屋台があります。近隣の群馬の境町、玉村町そして、埼玉の深谷市などにも、同型の屋台が現存してます。
 桐生市に現存する屋台6基は、世良田と同型ですが、大きさが格段に大きいのです。桐生型の大型屋台のひとつが、鉾座の本町四丁目の屋台です。桐生は織物の産地として、江戸、明治時代と、街は賑わい発展し続け、織物の買継ぎで財力を蓄えた豪商も出現しました。

 桐生の中心街の本町一丁目から六丁目が所有する屋台、鉾について、あーとほーる鉾座の解説書をお書きになった奈良彰一氏から伺ったお話は、大変興味深いものがありました。奈良氏からお聞きしたお話しと、あーとほーる鉾座の解説書を参照して、以下、レポートします。

屋台についての解説(四丁目祇園屋台)

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 明治2年(1869)に、完成したものである。鉾と同じく、本町四丁目で買い継ぎ商を営んでいた磯部庄七(いそべしょうしち 1824〜1896)が、スポンサーとなり、自らの趣向と設計によって製作された。
 襖絵 12枚を組み、両袖を拡げると7.5メートル、高さ7メートル、奥行き6.5メートルは、まさに巨大屋台とも言え、鳥が羽根を拡げたように美しい。(同規模の屋台が、本町各丁に一台、計六台現存する)
 舞台中央に回り舞台を有し、下座は二階建てとし、囃子座となっている。歌舞音曲の舞台として、大変珍しい構造であり、花道も付く。床下の車輪近くには20センチメートル角の樫材(かしざい)の心棒があり、かって屋台を曳き廻した際、180度回転させる為、一本で全重量を支えた。
 唐破風様式で四方全面に素木(白木)の装飾彫刻を据えている。藪塚の名工 岸 亦八(きし またはち 1891〜1877 藪塚は桐生西隣りの町)の手によるもので、龍、獅子、犬、牡丹、飛龍など大小60の彫刻で組み上げられた芸術品と云える。屋台側面で、2階下座の手摺り勾欄に飾られた翼を持つ飛龍彫刻は、なかでも貴重な彫刻だ。
 大工は、町内お抱え大工の鈴木嘉七である。
 襖絵は、二種類所蔵している。画家は清水東谷(しみずとうこく 1841〜1907)である。江戸生まれ13才で、狩野派に入門し玉龍と号した。
 一組の絵は、「鶴と秋草の図」で、狩野派らしく、華やかで繊細である。もう一組の「芭蕉之図」は、当時としては大変珍しい南方のバナナをモチーフにしている。2度目の来日をしたシーボルトに雇われ、植物の写生に従事した。長崎で油絵と写真を学び、その影響もあって、洋画風の大胆な構図となったものである。のちに横浜で写真館を開き、東京に上京する。大変貴重な美術品である。
 扁額は、表裏二種類所蔵している。正面破風下の「楽郷華観(らっきょうかかん)」は、江戸に居た館林藩の書家、田口江邨の筆によるものである。先代屋台の嘉永7年のもので、桐生の図案家石田九野(いしだきゅうや)と親交があり、依頼されたものであろう。寄進者は、四丁目の金子吉右衛門である。裏の扁額の「四街目」は、屋台完成を記念して磯部庄七が寄進した。尚、一部の彫刻と構造物が、嘉永7年(1854)製のものを再利用している。桐生の屋台では、一部とは云え、最古のものである。

 本町四丁目の祇園 "鉾"って、どんなもの?。

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 桐生型の鉾は、江戸後期以降、天下祭りの付け祭りとして出現した踊り屋台の屋根の上に、人形を載せた一本柱の鉾台を掲げて、鉾台型の山車に似せた、超大型の豪華な「踊り屋台」に仕上げたもの、 と 云えると思います。

 江戸末期から、明治期にかけて祭礼の主役をしめた「江戸鉾台型山車」とはルーツを異にするものと、考えます。この四丁目鉾は、あくまでも踊り屋台の発展型であって、桐生祇園祭りの付け祭りとして、活躍したものと考えます。町は織物業の盛況で活気があり、豪商の後見もあって、京都祇園の鉾にも匹敵する豪華で贅沢な仕様を備えた、関東一円でも最大の曳きものが誕生したのも、不思議ではなかったと思います。

 奈良彰一氏の調査資料に依りますと、明治8年(1875)に完成したもので、四丁目屋台と同じく、桐生四丁目で買い継ぎ商を営んでいた豪商、磯部庄七が51才の時、趣向を凝らして豪華な鉾に、仕立てたものです。織物から京文化の影響が強かった当時の桐生の様子が想像できます。

 鉾の四方全面の素木の装飾彫刻は、江戸末期から明治期に、北関東の多くの社寺の飾り彫刻を手がけたり、影響を及ばしたといわれる岸 亦八 79才の時の作です。
正面二本の向拝柱(ごはいばしら)の見事な昇り、降り龍をはじめ、破風や虹梁、木鼻の龍の数々、舞台と下座の内外の欄間などには、獅子、牡丹、リス、ブドウ、鶴など繊細な彫刻は、大小100個の部材で組み上げられております。

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