あーとほーる鉾座のオープンを記念して、桐生の伝統芸能の「からくり人形芝居」が行われておりました。正直に申して、これまでに山車研究家諸氏の書物の記述を読んだり、祭り愛好者仲間からの伝聞などから、桐生の山車(鉾)と屋台は、日本の祭礼の曳きものを研究する上で、貴重な存在であるとの認識は持ってました。唯、今まで実物を観る機会がなかったので、このほど平時にそれが見られる鉾座がオープンしたのは朗報でした。ですから今回の鉾座訪問は、山車と屋台のことしか頭にありませんでした。鉾座に入館したら、館内は映画館のように暗く、照明で浮かんだ特設舞台で、「曽我の仇討ち」のカラクリ芝居が進行中でした。 受付で貰った「桐生からくり人形復元のあゆみ」と題したチラシに、次ぎの説明がありました。
「江戸文化の名残を留める"桐生からくり人形"は、桐生天満宮御開帳で公演したもので、平成元年、人形が民家の蔵から発見され、その保存と復元に桐生からくり人形研究会の有志が集い、この程、曽我兄弟の人形芝居を復元したものです。芝居仕立ての人形が、かっては水車を動力源としていたが、現在は電動で一連の芝居の場面を上演します」。
カラクリ人形としては、これまでに実物を観ていたのは、岐阜の高山、愛知の犬山、名古屋そして半田の各市の山車に載っていた「山車カラクリ人形」だけでした。舞台の上を移動しながら、演技するカラクリ人形を観るのは、私は初めてでした。カラクリ人形に付いては、「山車カラクリ」「座敷カラクリ」「芝居カラクリ」の分類があることは承知してましたが、今まで現物を見たのは、山車カラクリだけでした。
カラクリ芝居上演終了後、館内の説明員の話ですと、江戸時代に江戸、大阪など中心都市で行われていたカラクリ人形芝居を、曲がりなりにも復元上演できたのは、ここ桐生市が最初だそうです。1丁目から6丁目まである長い本町通りの最も北に桐生天満宮があります。この天満宮の御開帳の飾り物として上演されたのが、桐生からくり人形芝居の興りであった。
天満宮の御開帳にともなうカラクリ人形芝居は、江戸時代の寛永年間に始められ、昭和36年を最後に、計8回行われた記録が残されている。江戸の文化のカラクリ芝居が、桐生の織物技術と結び付き、桐生の地に根付いたと云える。江戸と桐生の織物を通じての深い関わりがあっから、と想像できます。
以上の係員の説明からも、江戸の先進文化が、織物業の繁盛地というの地域性のおかげで、桐生への伝播が容易であったと思います。江戸・明治時代を通じ、桐生は文化的水準が高かった事、江戸東京からの距離も情報の人手に有利であったこと、 商業、産業の活動が活発で財力もあったことが、江戸や京都の伝統文化が桐生に移入され、今では貴重な伝統芸能として、現存することの意義は、極めて高いと思います。このことは、この後に見聞した本町四丁目の鉾の人形「素戔之命」が、江戸時代の有名な人形師、松本喜三郎の作であることからも、頷けます。
掲載のカラクリ人形の画像は、曽我兄弟の人形と忠臣蔵討ち入りの人形です。ともに、鉾座の屋台の舞台に陳列展示されていたカラクリ人形です。曽我兄弟の人形は、当日、鉾座で上演されていた「曽我の仇討ち」の人形とは別のものです。顔やボディーの人形作りから、舞台の屋形製作、人形の仕掛けや衣装など、「桐生からくり人形研究会」の皆さんの製作のものだそうです。
人形の着る衣装が豪華です。今も、伝統の桐生織物技術が脈々と生きておるのを感じました。
「桐生からくり人形研究会」が発信するホームページを紹介します。桐生からくり人形のことだけでなく、日本のカラクリ人形の歴史が、詳しく解説してあります。ここクリックして、ご覧下さい。