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越中南砺市 城端神明宮例大祭 "城端曳山祭"見聞録

 

 5月5日の早暁、高速バスを降りたバス停は、街灯の明かりに浮かぶ路面電車の軌道のある富山駅前の広い通りに面してました。自宅を出て、金沢経由大阪行の高速バスに乗ったのは、日付が変わる直前の前日4日の23時5分でした。バスは途中、客乗せで数箇所停止しながら、一般道を40分ほど走ってから、最初の高速道の上信越自動車道を皮切りに、長野道、中央道、北陸道を疾走、道中5時間ちょっとで、富山駅に到着しました。

5月連休の真っ只中のせいか、高速バスは定員満杯の乗車率100%。行くかどうか躊躇していて、間際になって申し込んだ時は、座席が残り一個ですと宣告されていたので、当然一番後ろの座席でも文句は云えない。空きペットボトルの容器に忍ばせたお燗をした清酒を(笑)、周囲のひとに気づかれぬように、ちびりちびり、そのお蔭で尻の下のエンジン音も、うつらうつらの夢の中の子守唄、出かけ前に自宅で睡眠もとっていたので、目覚めもすっきりの富山到着でした。

二年前の同じ5月始めに、高岡市と越中八尾町の祭りを観に行ったとき、この富山駅前で食事をしたことを思い出しました。富山市の祭りでないのですが、今度の城端にしても、富山市周辺の町々に有名な曳山祭りが多く、その縁で度々、立ち寄る富山市です。富山市は駅前の地下街や路面電車、幅の広い街並みなど近代都市の様相、そのものです。将来、新幹線が開通しますと、地勢的に首都圏との行き来が短時間となり、今回の様に富山駅の待合室で、2時間近くも電車待ちをしなくても済むかもしれませんね(笑)。でも、待合室に掲示されている城端曳山祭のポスターを眺めながら、缶ビールをお茶代わりにして、持参したおむすび弁当を食するのも、また楽しからずやでした。


6時40分、北陸線下り始発鈍行電車に乗車、高岡で乗り換えてJR城端線で城端へ。城端は、平成16年11月に、城端町を含めて八つの町村の合併で実現した6万都市「南砺市(なんとし)」のほぼ真ん中です。以前から城端町の曳き山祭りの様子は、祭り仲間からの話で承知しておりましたが、実際に訪問したのは今回が最初です。


高岡駅を出た3両連結のワンマンカーのジーゼル車は、まだ雪 に覆われている部分が多い山並みが遠くに望める富山平野を南へ、幸い朝から快晴の好天気に恵まれ、明るい太陽の光のなか、既に田植えの準備で水の引き込まれた田んぼが、遠く近く、後へとゆっくりと流れて行くのが車窓から観られ、深夜バスと駅待合室の狭い空間から開放された想いで、ほっとしたまことに心地よい眺めでした。

午前7時半、終点の城端駅に到着。城端駅で貰った城端曳山祭りのリーフレットを読みますと、平成の大合併で生まれた南砺市の南部の旧平村、上平村、利賀村の三村を合わせた地域は五箇山(ごかやま)と呼ばれていて、この地域はわが国でも有数の豪雪地帯であり、そのような風土から傾斜の急な大きな屋根を持つ合掌造りの家屋が生まれ、隣接する岐阜県白川村の白川郷とともに「白川郷・五箇山の合掌造り集落」として、世界遺産に登録されたのだそうです。南下する城端線の進行方向の車窓から見えた遠くの雪山は、その五箇山の山並みの一部と知りました。

終点の城端駅は大きな富山駅や高岡駅とは趣が違って、駅員さんが乗降客の一人ひとりから、馴染みの客には笑顔で声を掛けて、切符や運賃を受け取る様子は昔の鉄道駅を偲ばせて、気持ちが和む思いにしてくれました。真新しい曳山祭りのポスターの掲示されている板壁の古さが妙に懐かしさを感じさせる駅舎の前の道は国道304です。リーフレットの曳山祭り順路図をみますと、国道を横断して直進しないで、国道をそのまま左方向に進むと曳山の巡行する区域になるので、国道を歩くことにしました。

城端の曳山は、人形山車と底抜け屋台の組み合わせ

快晴の空、既に高く昇った太陽の日差しに向かって暫く歩きますと、右へカーブする緩い登り坂となり、少し歩くと「午前8時から終日、車両交通止め」の柵の置かれている四つ角にでました。その先を見ますと、道路左側に止っている曳山が眼に入りました。おっ、と思わず胸の血が騒ぐのを感じました。どこの山車祭りを訪問しても、いつも感じることなのですが、その祭りの山車や屋台をはじめて見たときは胸のはずむのを覚えて、つい駆け脚になって、その傍に駆け寄っちゃうのです。"祭り狂?"、"山車狂?"の習性なのでしょうね(笑)。

東からの太陽が逆光になるので、画面が暗くなるのを承知で、山車と屋台の曳山2基を撮影しました。祭り案内チラシの順路図から、この曳山は出丸町(でまるまち)だと、直ぐに分りました。山車と屋台の両方が、正面を向けて横に並んで居る場面で撮れたのは、この出丸町だけでした。逆光で、写真画像が見難いのはお赦しください。

城端曳山祭の曳山の大きな特徴は、庵(いおり)屋台と城端の皆さん方が呼んでおります屋台にあると、管理者は思います。一般の祭りの屋台は、屋台の囲いの中で祭り囃子や音曲を奏で、それに合わせて屋台の舞台で舞や芸を披露する祭礼曳きものです。城端の屋台はその囲いの中で、端唄(はうた)を演奏します。端唄は、邦楽のジャンルのなかのひとつである俗曲に分類されるもので、俗曲とは小唄、端唄、さのさ、 都都逸などを指します。三味線と笛、太鼓に合わせて唄います。端唄とは?ここをクリックしますと、端唄の解説のページにリンクします。ブラウザーの戻るでお戻り下さい。

端唄は江戸時代の座敷唄、屋台で奏でる端唄を聴いて、その場に居ながら、料亭で遊ぶ気分にひたれるという、先人の粋な遊び心から生まれたものだと、祭りパンフレットに紹介されてます。祭り囃子といえば、笛、太鼓、鼓、三味線、鉦などの楽器を打ち鳴らして、どちらかと言えば、賑やかなものが普通ですが、唄い手がゆったりと唄う口調と歌詞の内容を楽しむという端唄を祭り囃子として採用し、地域的特色を謳いあげた城端の先人の皆さんの意気込みに敬意を表したい思いです。

庵屋台の構造ですが、概ね長さ9尺、幅4尺、高さ6尺の枠を設け、上の枠に梁を廻わして天板を設け、四方に透かし彫り彫刻の装飾を施した欄間を置き、天板の上にお茶屋、料亭の縮尺模型の館を載せ、欄間の四方下に腰幕を垂らし、下枠の隅に四個の小型車輪を設け、底板、つまり床板は設けず、屋台の中で端唄を演奏する若連中は屋台の動きに合わせて、歩くことになります。いわゆる"底抜け屋台"の形式の屋台です。

庵屋台の模型の料亭は、忠臣蔵の大石内蔵助が遊んだという京都祇園の「一力茶屋」や江戸吉原の料亭を模したということですが、格子戸などは実物同様に開閉ができるほどの卓越した細工で仕上がっており、写真で見ると本物の料亭を見ているような錯覚になります。底抜け屋台は、江戸時代の江戸天下祭り初期のころに造られたと云われてますが、今でも埼玉の「飯能まつり」 など、関東の各地の祭りで曳き出されております。尚、リンク先「飯能まつり」のページは、管理者の所属する祭り仲間グループの大先輩のI氏のページの一部です。ブラウザーの戻るでお戻り下さい。


出丸町の曳山の神座と欄間

城端曳山会館のリーフレットは以下のように、曳山を説明してます。「曳山は、加賀藩から特別な厚遇を受けた大工やその流れを汲む郷土の工人たちの作で、金箔や多彩な城端塗りの粋をつくした屋形式二層人形山である」。時代背景を考えますと、関が原、大阪の陣を経て、徳川の安定した治世となり、北陸各地で絹織物業が勃興し、江戸・京都との交流が増し、五穀豊穣・招福除災・地域繁栄の住民の欲求が膨らみ、元禄時代に入ったころから、北陸各地に曳山祭りが始まったものと、考えます。

そして、各地で曳山を造るに際し、高岡の御車山(みくるまやま)を真似た、少なくとも、手本・参考にしたものと推測できます。城端ばかりでなく、近隣の石動(いするぎ)、氷見(ひみ)、新湊(しんみなと)、伏木などの曳山は皆、作製時期が高岡より遅く、高岡の曳山を念頭に置いて、設計し形付けられたものと想像できます。高岡の曳山の画像をご覧下さい。高岡の御車山  クリックしてご覧ください。ブラウザーの戻るでお戻り下さい。


城端山車会館で配布を受けた曳山祭のリーフレットは、上質紙を使ったB5サイズの美麗なもので、リーフレットでなくパンフレットと呼ぶべきかもしれません。表と裏の表紙を含め16頁を使って、鮮明な色彩写真を豊富に掲載して、城端曳山祭りの紹介を詳しく記述してます。平成14年(2002)、国の重要無形民俗文化財に指定されていることへの城端の皆さんの誇りと自負を感じさせるものがあります。画像をクリックしますと、拡大します。ブラウザーの戻るでお戻り下さい。


出丸町の曳山の台座(せいご台)と板車の車輪、そして轅(ながえ)

御神像人形の鎮座する主座と背側の後屏、そして高欄から成る神座は、形や大きさ、配置が高岡と城端を比べると、両者がそっくり同じです。一方、曳山の神座と台座(せいご台)との間の欄間を比べると、城端はじめ周辺の町々の曳山の欄間の方が、高岡の欄間よりも厚みがあり豊富な彫刻や飾り金具で装飾され、見栄えは数段よくなっております。

前田利家公が太閤殿下より下賜されたという由緒ある御車山である高岡の曳山は、下賜された当時の原型を保つために、余分な手直しは避けたものと推測します。養蚕、織物で住民の経済力が高まって、各地で競って御神像の製作や曳山の装飾に力が入れられるようになったのです。曳山祭りが高岡周辺各地でも盛んに行われるようになって、それに伴い、曳山造りがあっちこっちで行われたことで、高岡の住民から苦情がでました。そんな当時の様子が想像できるのが、城端曳山会館に掲示されておりました。

「安永曳山訴論」と題した案内書きです。  内容は、「安永四年十二月十四日盗賊改方 寺西禅正の召喚によって、城端から組 合頭三人を含む七人の者が魚津へ出頭し、詮議を受け三人が入牢した。これは城端、今石動放生津(いまいしるぎ・ほうじょうづ)の曳山車が、高岡祭礼の台鉢車(だいはちくるま・御所車)に似かよっており、高岡の車は瑞竜院様(前田利長)の時代に御寄付下された由緒のある御免車だから、他町で真似ることは絶対ならぬ、という訴えによるものであった。その翌年の安永五年二月十七日に、城端の車は小矢部川を舟で降り伏木より海路魚津へと運ばれて、二月二十六日に検分の上返還されたが塗師屋治五左衛門は六月まで拘留された。詮議の結果、二つ指車板車を禁じるが城端は祭礼の始まりが古いので継続が許され、今石動は差し止めとなった」と、記述されております。
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お分かりになられたでしょうが、要旨は、安永の当時、高岡の曳山を真似て、曳山を造ることに対して、高岡の人たちが自分達の曳山は由緒ある曳山であって、真似ることまかり成らぬと、異議を申し出でことが始まりです。役人の審議の結果は、高岡と同じ御所車仕様の輻車(やぐるま・大鉢車)と板車(輻車の16本又は32本の矢の部分を板で覆った形式で、大きさは輻車と同じ)は、高岡以外の他所の山では使用禁止とした。

二つ指(ふたつさし)とは、車輪が付く曳山の土台(台輪・だいわ)に、一本の車軸の両端に左右二個の車輪を取り付ける方法(つまり、二つ指し)のことで、これと違う方法で個々の車輪毎に車軸を設ける方法とがあります。前者は土台の外側に車輪が出る形式(外輪式)で、後者は土台の内側に車輪が隠れる形式(内輪式)で、内輪式の車輪は太い丸太を輪切りにして仕上げた車輪(地車・だんじり)で、愛知県半田市など知多地方の山車に多く使われております(半田では車輪をゴマと呼ぶ)。丸太を輪切りにしただけの車輪ですから、直径で50〜60センチ位で、輻車(やぐるま)のような大きな経の車輪は無理で、装飾も不向きです。

どうも判然としないのは、この訴訟の目的が高岡の御車山の全体の姿かたちを真似するな、ということなのか、それとも二つ指しの御所車形式の輻車(やぐるま)と板車を使用するな、というのか、どちらだったのでしょう。審判の結果が車輪の形式だけを規制しただけであったとすると、曳山祭り、そのものを規制しかねない事態が避けられた大岡裁判だったのではと、思います。で、この規制がその後どの時代まで維持されたか、つまり守られたかは分りませんが、想像するに、高岡御車山を元祖として発展した北陸地方の人形山車の形式では、内輪式はどうみても似合いません。内輪式の車輪では高岡型の曳山は造れませんから、今石動・放生津(いまいしるぎ・ほうじょうづ)などの高岡以外の地域は曳山の無い祭礼で我慢するしかなかったことでしょうし、ほとぼりが冷めたころ、早晩、規制は無視され、二つ指車の曳山が復活したと思います。祭り文化は模倣で広まると云われております。このような狭量な規制が江戸末期まで続いたとは信じ難いことです。今、現在の城端の6基の車輪は輻車(やぐるま)と輻(や)のない板車とが丁度、半々です。

幅 車

板 車


東下町

出丸町

東上町

西上町

大工町

西下町

Webサイトの情報ですが、曳山の車輪について、浜松の小池工務店さんのHPが大変参考になります。江戸期も同じ工法で板車が造られていたと思いますので、板車とはどんなものか、知ることができますので、ご覧下さい。ブラウザーの戻るでお戻り下さい。

城端曳山祭は、5月4日が宵山祭りで、翌日5日が本祭りです。山鉾巡行で名高い京都祇園祭りは、本祭り前日夜の宵山も有名で、夕方から夜半に掛けて、四条通りは勿論、各山町界隈は人出で賑わいます。管理者も京都宵山を見てますが、曳き山の側面に、縦に繋ぎ合わせた駒形提灯が幾条も吊り下げられて、本番を待つ状態で待機しているの鉾や山を、真近に見られるのが最高の楽しみです。本祭りでは巡行、曳行されている山には近づけませんし、山町の皆さんから話も聞けませんが、宵山では、それができる絶好の機会になります。

鉾や山の各町の会所前には誰でも腰を下ろせるように、赤い大きな日除けのある縁台が置かれ、道路に面した一般の家々は、通りを歩く一般の人たちに供覧すべく、間口を広く開けてその家伝来の自慢の掛け軸や書画、屏風、簾などを座敷に展示してあり、それを覗き見するのも、祭りの風情が感じられて楽しい気持ちになります。どこの祭礼でも、宵山は本祭り同様に楽しい、意義のあるものなのです。

今回の城端訪問は管理者の自己都合で、本祭りだけの見学で、宵祭りは観てません。城端の宵祭りも京都のそれに似たものであったと想像してます。パンフレットには、「城端6ヶ町の各山宿での飾り山は必見です」と記されてます。御神像が山宿に鎮座して、来訪者は真近で像を拝することができ、山町の人達から、山の組み立ての様子など、祭り準備の話を聞くことが出来ますし、お神酒などのもてなしもあるとのことでした。

京都祇園祭の宵山の様子を敢えて記述しましたのは、城端曳山祭の宵山も、京都祇園祭りのそれに似た賑やかなものであったろう、と申し上げたかったからです。到着して直ぐに気がついたのですが、町の通りに面した家々の間口には、幅の広い祭りの祝い幕が張り出されておりました。京都の祭りで見かけたものと似ており、このことからでも城端の皆さんの祭りを楽しもう、盛り立て様との意気込みが感じられたからです。
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三味線、笛が奏でる雅び溢れる"庵唄(いおりうた)"

駅頭で配られていた曳山祭り案内チラシは、駅舎などに張られている祭りポスターをそのまま、A4に縮尺して印刷したものです。そのチラシの裏面に、平成18年度曳山祭順路図が印刷されてました。下図は、チラシの順路図を参照して、管理者が作製した曳山祭順路図です。

 この図の上(北)から、出丸町、西下町(にししもまち)、東下町(ひがししもまち)、東上町(ひがしかみまち)、西上町(にしかみまち)、大工町(だいくまち)と、 六つの山町がつづきます。図中の町名の番号は、午前10時からの曳山隊列巡行の順番です。

本祭りの予定は
☆午前8時 お旅所から、神輿・傘鉾行列が出発し、氏子町内を巡行、3時頃には神明宮(しんめいぐう)に還御します。

☆午前10時 別院前に集合した6台の山車や庵屋台は、庵唄を唄いつつ巡行に出発します。昼食を挟んで、町内を巡行し、午後5時に出丸町で昼間の巡行が終了。提灯を取り付け、夕食。

☆午後7時 帰り山として、国道の南下して、城端庁舎前へ、Uターンして、曳山会館前で解散(午後10時)。各町の曳山は、それぞれの山宿へ帰る。

別院を出発した庵屋台と人形山車の巡行の様子をビデオ画像に撮りましたので、ご覧下さい。

ダイアル回線並びにISDN の通信環境の方は、表のを、ブロードバンドの通信環境の方は、表のをクリックしますと、マイクロソフトのWindows OS に標準装備されているWindows Media Player が立ち上がって動画像が再生されますので、ご視聴下さい。動画再生が終了しましたら、プレイヤーを閉じて、次ぎの画面の左上の戻るをクリックして、ページにお戻り下さい。

平成18年5月5日午前十時、別院を出発した城端曳山祭の巡行隊列の神輿に続いて、庵屋台と人形山車のペアで、六基の曳き山が曳行された。

通信速度/秒
動画pixel
コマ数/秒

通信速度/秒
 動画pixel
コマ数/秒

Windows OS に標準装備されているMicrosoft Media Playerで、再生されます。
Playerのサイト接続とバッファ(ダウンロード)で、画像が出るまでに1,2分の時間が掛かりますので、気長にお待ち下さい。

ナローバンドのビデオ画像は小さく見づらいですが、演奏音はブロードバンドと同様の正常な音量で聴けますので、是非、お聴き下さい。

56kbps
160×120
15fps

ISDN

録画再生時間
20分

250kbps
320×240
30fps

ADSL

録画再生時間
20分

インターネット接続環境の合わせて、右のバナーをクリックして下さい。



城端の曳山には名前が命名されております。

隊列番号・山町名

曳山の名前

御神像

@ 大工町 だいくまち

千枚分銅山 せんまいぶんどうやま

関羽・周倉 かんう・しゅうそう

A 西上町 にしかみまち

竹田山 たけだやま

恵比須 えびす

B 東下町 ひがししもまち

東耀山 とうようやま

大黒天 だいこくてん

C 出丸町 でまるまち

唐子山 からこやま

布袋 ほてい

D 西下町 にししもまち

諫鼓山 かんこやま

堯王 ぎょうおう

E 東上町 ひがしかみまち

鶴舞山 つるまいやま

寿老 じゅろう


城端の曳山の最初の出会いとなった出丸町の曳山をカメラやビデオに収め、庵屋台の構造など、町の人たちと曳山談義をしていましたら、隣町の西下町方向の四つ角から、庵屋台と人形山車が、数人の紋付袴姿の役員に先導されて、国道へ出てきました。西下町の曳山でした。出丸町の山車もそうでしたが、西下町の山車の車輪から発生する軋み音は大きく、まことに賑やかです。城端の人形山車は6基とも軋み音が大きいです。敢えて軸受けにグリスなど付けないで、軋み音が出る様にしているのかもしれません。高岡、八尾の曳山も派手な軋み音が出ていたのを思い出しました。平安時代の二輪の牛車(ぎっしゃ)の伝統なのでしょう、聴き慣れると気にならなくなるものです。

西下町の山車、諫鼓山の前後左右の画像から、城端の曳山の人形山車(にんぎょうやま)の姿、形、構造を観察してみましょう。


西下町の山車(やま)、諫鼓山の正面画像です。

城端の人形山車は、6基とも基本的な造り、つまり外観と構造は殆ど同じです。山の大きさ、高さ、幅、前後の長さに多少の違いはありますが、金箔や多彩な城端塗りの粋をつくした屋形式二層人形山と呼べます。

御神像人形の鎮座する主座と背側の後屏、そして高欄から成る神座は、形や大きさ、配置が高岡と城端を比べると、両者がそっくり同じです。一方、曳山の神座と台座(せいご台)との間の欄間を比べると、城端の欄間の方が、高岡の欄間よりも厚みがあり豊富な彫刻や飾り金具で装飾され、見栄えは数段よくなっております。尚、富山市八尾町の曳山は城端の曳山によく似てますが、せいご台の位置がお囃子の楽屋になってますが、城端は庵屋台で囃子を演奏するから、せいご台にしてあるわけです。

入母屋造り屋根の庇の前と左右側の三方が唐破風仕上げで品好く、又、屋根の幅が広いので、道幅一杯での巡行時に屋根の庇の破損を防ぐ為の仕掛けがあります。神座の柱に寄り添う袴姿の4人が紐を引きますと、左右の庇が屋根の勾配に添って、上へ移動します。この庇の移動は城端独特のものですが、この方式(スライド式)はこの西下町だけで、他の5町の方法は、紐を引くと庇が折り曲げられる方式(跳ね上げ式)です。よく、工夫してますね。

スライド式

跳ね上げ式


西下町

出丸町


西山町の山車、諫鼓山の背面です。

"城端曳山祭"のパンフレットは、西下町の曳山を以下の様に紹介してます。

「御神像の背部に備えられた見返し(後屏)の"竹に鶏"の浮彫にも見られるように、装飾には"鶏"の文様のデザインが使われている」
「神像"堯王(ぎょうおう)"を安置する諫鼓山は、原作は享保年間で、年代を経て随時修繕、増補され、嘉永年間から明治・大正時代へと改修され、今日の曳山が形成された。板車の車輪、三方唐破風の屋根、平天井で、高さは6.18メートルです」

「堯王は中国古伝説上の聖王で、舜と並んで中国の理想的帝王とされています。諫鼓は君主に対して諫言しようとする人民に打ち鳴らさせる太鼓です。堯王は善政を施したので、諫鼓を用いることがなく、鶏が太鼓の上に巣を作ったほどだあったという。このいわれにちなんで諫鼓山と称された。神像は享保元年(1716)、木屋五郎右衛門が彫像し、明和3年(1766)、荒木和助、木屋義右衛門、木屋九平の3人によって修復され、曳山人形の中では最も古いものです」


西山町の山車、諫鼓山の側面。左画像が左側面で、右画像が右側面です。
鶏の乗る太鼓は神座の正面の左側、御神像の左手の前の柱の脇に置かれてます。

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