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平成25年7月は上野、高崎間の鉄道(現、高崎線)が開通し、"陸蒸気(おかじょうき)"がお目見えして、130周年になりました。明治17年(1884)5月1日のの開通時の停車場は、上野、浦和、上尾、鴻巣、熊谷、深谷、本庄、新町、高崎の9つでした。上の画像は、高崎駅に掲示された高崎線開通130年のご挨拶の看板です。

新町は、上野〜高崎間の全線開通の丁度一年前の明治16年12月に、上野、新町間が開通しております。新町の"山車まつり"は、隔年の開催で、平成24年はお祭のない歳でしたので、平成25年に開催される新町ふるさと祭り"山車まつり"は、高崎線全線開通130周年を祝う記念の歳のお祭りとなりました。

新町の人形山車、踊り屋台のご紹介だけでなく、新町が中世から近世への過渡期に、街道の宿場、馬次宿駅として発展してきた様子を御知らせ出来たらと、ホームページに致しました。 

 

高崎市"新町(しんまち)"って、どんな町?

新町商工会のホームページの巻頭に、「平成18年1月23日に高崎市と合併した新町は、東西2.8km、面積3.74平方kmと関東でもっとも小さな町です。しかし、かつては、中仙道の宿場町として大いに栄え、明治には国立屑糸紡績工場が開設され、隆盛を極めました」と、簡潔に新町を紹介しております。江戸期に五街道が整備され、激しくなった大名、武人、官吏の往来を迎える本陣、脇本陣、商人庶民の旅宿や馬次の受け入れなど、宿場町としての活況を呈していた新町の様子は、町内の寺社の規模、数などから伺え知ることが出来ます。

近世時代の新町

新町って、何処〜?

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1644年(正保元年) 「正保国絵図(しょうほくにえず)」に、落合村、笛木村の地名が載っている。即ち、正保国絵図の記述の中の上野国絵図の中の緑埜郡(みどのぐん)の中に、落合新町と笛木新町の表示があります。両町の絵図表示を見ると、二つが区切れて無く、表示の枠が接して書かれていることからして、当時は、落合新町、笛木新町と別々に呼ばれた別個のふたつの宿場であっても、宿場としては両町あわせて新町宿と呼ばれた居たものと思える。

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【北国街道】とは、五街道の1つである中山道の追分宿から分岐し、越後高田城下までを指します。幕藩体制下の北国街道は、佐渡産金の輸送路として、また北陸諸大名の参勤交代路として伊勢路や中国路とともに五街道に次ぐ重要な街道として位置づけられました。中山道の宿駅、馬次の役割も果たしていた新町宿は、近世、佐渡に通じる街道の宿として重要度が高まりました。

☆「正保国絵図」(国立歴史民族博物館蔵)とは、将軍家光時代の晩年の正保期(1644〜47)に、諸大名に命じて、国単位で作らせた国絵図(くにえず)で、これに基づき、正保日本図(日本総図)作成された。尚、絵図の画像は、ウェブサイト「国立公文書館デジタルアーカイブ」より引用しました。
絵図の原本は明治6年(1873)の皇居の火災で焼失したが、複製が国立歴史民族博物館に保存されている。

☆落合村の地名の由来
古くは現新町地域は、北部を落合、南部を笛木と呼んだ。烏川、神流川の氾濫原であるために洪水が多かった。落合村の"落合"とは、烏・神奈の落ち合った地域からの地名である。

☆笛木村の地名の由来
 諏訪神社に隣する専福寺前に、住居のあった清水久左衛門が、覚書として元禄四年(1691)に村役人を勤めた際に残した文書がある。 「天正十年(1582)八形上使(鉢形城主)北条阿波守と滝川伊予守といくさされ、阿波守様がお勝ちなされ侯につき、笛木と申す者、村を御立て、則、寺を御立て、 阿弥陀一体下だされ、当分まで御座候」と記している。此の頃から笛木氏の名を地名として、笛木村と称えたと推量される。笛木家に、観誉浄相察岸居士文禄 二年(1593)十月十六日没、と書かれた位牌が現存する。神奈川合戦で、北条氏が織田信長の重臣、滝川一益に勝利した機縁の村名。以上の新町情報は、高崎市中央図書 館蔵の「新町史」を参照致しました。

 以下の年次別の新町情報は、高崎市中央図書館蔵の「新町史」を参照致しました。
1651年(慶安4年)   落合新町御伝馬役を拝名。
1653年(承応2年)  笛木新町御伝馬役を拝名。中山道開通、両新町は合併駅となる。
1654年(承応3年)   北国街道・加賀街道が中山道と繋がり、新町宿と公認される。街道整備が進み、中山道の往来が増える。

1655年(承応4年) 新町宿、伝馬継立を始める。
  1665年(寛文5年)   伝馬50人25匹体制へ。正式な伝馬宿(馬次)の開始。
1724年(享保9年)  新町宿が中山道の正式な宿場となる。
1774年(安永3年)世良田村の毛呂義郷著の「上野国志」の中に、緑埜郡に50の村落があるとの意味の村落五拾捌村(捌は、ハツと読む)の記述に続いて、「笛木村 ・落合村、此の二村は新町の駅なり」と記してある。
1875年(明治8年) - 緑野郡落合新町・笛木新町が合併し、新町駅(宿駅)となる。
1877年(明治10年)10月20日 - 新町紡績所(内務省勧業寮屑糸紡績所)の開業式挙行。業態は隆盛を極め、町の発展に寄与。

1883年(明治16年)12月、上野・新町間を"陸(おか)蒸気"、鉄道開業。群馬県で最初の鉄道停車場が開場。尚、翌年の明治17年6月、新町高崎間が開通し、 現在の高崎線が完成した。
 停車場は上野、浦和、上尾、鴻巣、熊谷、深谷、本庄、新町、高崎。1885年(明治18年)3月、上野から品川・新宿・赤羽間を開業して官設鉄道と接続された。

1889年(明治22年)4月1日 - 町村制施行に伴い、群馬県緑野郡新町が成立する。
1893年 (明治26年)区を設置し、行政の単位とした。区政の一区〜七区を設置。 
1896年(明治29年)4月1日 - 緑野郡が多胡郡・南甘楽郡と統合して多野郡となり、同郡の所属となる。
1923年 (大正12年)南部を八区、九区、十区と鐘紡区とする。 2006年(平成18年)1月23日 - 群馬郡群馬町・箕郷町・倉渕村とともに高崎市に編入される。

江戸時代からの伝統のある新町の祭礼とは?

八幡宮と、別当寺の宝勝寺(ほうしょうじ)の"神幸祭"

"上三町" 宮本町、仲町、橋場町の祭礼

落合山宝勝寺

新町八幡宮

掲載の神輿画像は、説明ボードの神輿をコピーした。江戸時代中期の重厚、 華麗で高貴、品格のある貴重な神社神輿です。笛木宿の諏訪神社の神輿は別途ご紹介します。

左、一番上の画像は、八番宮境内の高崎市指定文化財の立て札の立つ、八幡宮神輿の収蔵倉です。倉の下の画像は八幡宮の 指定文化の指定内容の説明ボードです。説明ボードをクリックしますと、拡大します。拡大画像の左上の←で、お戻り下さい。

☆下の右の画像は、クリッ クしますと、拡大します。左上の←でお戻り下さい

ボードの中の説明文の中の「天神の獅子舞」と「八幡宮神輿」の解説文は以下の通りです(八幡宮の高崎指定文化財の掲示板より抜粋)。

☆天神の獅子舞☆
天神地区(現在の第2区周辺)の人達によって伝承されている稲荷流獅子舞で、雄2頭、雌1頭の一人立ち3頭獅子である。獅子は鳥総(とふき)を飾った頭をつけ、タッツケ袴、白足袋、草鞋ばきで、腰太鼓をつける。元禄4年(1691)落合宿で、八幡神社再建のおり、新町産の一本桐で獅子頭を新調したと云われている。獅子3頭のほか天狗とカンカチが加わり、笛の伴奏で舞全体をリードする。祭の時は天神様・八幡宮を参拝し、神官に祓い清めてもらい、舞を奉納してから"上三町"(かみさんちょう 現在の1区、2区、3区)の祭会所で舞を披露した。

☆八幡宮神輿☆
寛政5年(1793)宿場の大火によって焼失したものを、信仰の篤い宿場の人々の悲願によって享和元年(1801)に復元されたもので、渡御神輿と称される荘厳なつくりです。落合宿の産土神、八幡宮の神霊を祭事に移して、宮本、仲、橋場の各町内に御旅所を設け、年番の町内が奉仕した。神輿の他に、中国から渡来して大和時代に定着した青竜、朱雀、白虎、玄武の四 神旗もあります」。

解説文の中にあります「落合宿の産土神(うぶすなかみ)、八幡宮の神霊を祭事に移して、宮本、仲、橋場の各町内に御旅所を設け、年 番の町内が奉仕した」とありますことにご注目下さい。既にご案内致しました様に、中世の江戸期に宿場として繁盛していた新町宿は、落合新町(落合宿)と笛 木新町(笛木宿)の二つが集合した宿場でした。

今の一区、二区、三区、元の呼称ですと宮本町、仲町、橋場町を氏子範囲とする八幡宮と別当寺の落合山宝勝寺は、落合宿の住民に厚い帰依を寄せられていたのです。落合宿の氏神を奉る祭事には、神輿で年番三町に設けられた御旅所へ渡御された神霊は、数日御座奉って、地域 氏子の拝礼を受け、神霊神輿行列には獅子舞、飾り屋台などの曳山が隊列奉仕したという。山車・屋台の曳山の隊列奉仕は、既に江戸時代の中期から盛んに行われていて 、明治、大正、昭和と引き継がれて来てますが、現在は隔年の「新町ふるさと祭り・山車まつり」を、貴重な神社神輿の復活を期して、益々盛り上げて行きたいと念じるものです。

新町の神輿・獅子舞・山車・踊り屋台  

次の記述は、「新町々史」の祭礼・芸能の第一節より抜粋です。

「明治16年、東京上野より新町まで鉄道が開通することになり、開通記念の大祭を開催 するため、新町各町内が活気づいた。前年の15年に仲町が人形山車、橋場町が踊り屋台を新調したほか、各町内もそれぞれ屋台を調えた。天神・諏訪町は獅子舞を手入れし、川岸町(かしまち)は花火を製造して打ち上げる準備をした。天神は烏川沿いに乗っ切り馬場を開いて草競馬に備えた。

こうして迎えた明治16年末に、待望した鉄道が開通し、初めて汽車(陸・おか・蒸気)を見物する人々が近隣近在から新町に集まり、群集2万人が溢れて町は祭り一色となった」。この記念大祭を始めとして、町の鎮守の祭典や祇園には各町内から飾り屋台が引き出された。それら曳き物は神輿の御旅所への渡御、環御の行列に華を添えたことでしょう。

仲町の人形山車と橋場町の踊り屋台の新造
 

市立中央図書館蔵の「新町史」に依ると、<1875年(明治8年) - 緑野郡落合新町・笛木新町が合併し、新町駅(宿駅)となる>とあります。今に続く”新町”の誕生が成ったわけですが、やはり八幡宮と宝勝寺の両寺社に帰依する一区、二区、三区(宮本町、仲町、橋場町)が町の中心となっており、この三町が町の上手になるので、『上三町(かみさんちょう』、又は、江戸時代の名残りの落合宿、笛木宿の呼称から、上三町を落合組とも呼んでいた。

「新町史」の祭礼・芸能の第一節の記述にあります<前年の15年に仲町が人形山車、橋場町が踊り屋台を新調した>とあります。この両町の曳山の製作者は、人形師"三代目原 舟月"です。原 舟月と云えば、江戸を代表する有名な人形師で、山車や踊り屋台の本体の建造にも関わっていて、その三代目が明治初期から半ば頃に掛けて、一世を風靡した人形師です(絵守すみよし著『人形師「原 舟月」三代の記』青蛙房 を参照)。

JR高崎線の上りで、新町駅からふたつ目の駅の本庄市の宮本町の山車と山車人形「日本武尊」は、著書『人形師「原 舟月」三代の記』によれば、何と驚くなかれ、山車、人形とも三代目原 舟月の製作で、製作年も新町の仲町と同じの明治15年です。汽車(陸・おか・蒸気)は、明治16年10月21日に、熊谷〜本庄の営業運行を開始し、続いて12月27日に 本庄〜新町の営業運行を開始しております(ウェブサイト、高崎線のページを参照)。本庄、新町とも駅開業、運行開始の前年の明治15年に山車を完成させております。推察するに、本庄も新町と同様に、"陸蒸気"の開通を慶事として、祭礼に沸いたのでしょう。

上の右側の画像は、仲町の山車の四方幕と大幕を収納保管する「原 舟月」の墨書のある長身の大きな木箱、その上の中型の木箱は、山車の最上部に掲げる錦旗と欄間や懸魚などの彫刻類と擬宝珠を収納保管する「錦旗、調(彫)刻、ぎぼし」と墨書のある木箱です。この二つの木箱は仲町公民館に保管されていたものを、管理者が撮影したものです。画像をクリックしますと、拡大します。拡大画像の左上の←で、お戻り下さい。

上の左側の画像は、「原 舟月」の墨書のある大きな木箱を開けて、木箱の蓋の内側を撮影したものです。墨書の内容は、明治十五年 九月 録之 新町駅落合組 です。「新町々史」によると、新町は1875年(明治8年)に 落合新町・笛木新町が合併し、新町駅(宿駅)となっておりますが、町民の間では、旧呼称名の落合新町は落合組、笛木新町は笛木組と名乗っていた。 この墨書の内容は、仲町の山車が明治十五年九月に完成したことを示す物証です。

 

2区仲町の人形山車と3区橋場町の踊り屋台は、新町の文化財に指定されておりましたから、高崎市との合併で、高崎市指定文化財に登録されました。高崎市文化財に初めて、人形師・原 舟月の人形山車が登録されたことに、管理者は喜びを感じ、このホームページを開いた動機となりました。

 二区仲町の山車倉と三区橋場町の屋台倉には、それぞれ高崎市指定文化財の案内板と表札棒が建ってます。クリックしますと、指定の由来の案内になります。左上の←で、お戻り下さい。 

"下四町"、笛木町、諏訪町、川岸町、八坂町の祭礼

諏訪神社に隣接する専福神社

諏訪神社の豪華な神輿

神輿の内天井の極彩色の鳳凰画。

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諏訪神社


諏訪神社神輿蔵

新町八幡宮と諏訪神社に、作製が江戸期に遡る渡御神輿が、文化遺産の指定を受けて、今も手入の行き届いた神輿倉に保管されていることに、管理者は大きな敬意と喜びを感じます。神社祭礼の復活を願って止みません。

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