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豊臣秀吉から前田利家に下賜された御所車が高岡御車山の源流

 「大和朝廷による統一国家が成立した頃、北陸一帯は越(高志)と呼ばれ、北方の蝦夷に対する征討や防衛の重要な拠点でした。大伴家持が越中の国守として赴任した天平18年(746)の頃の越中は・・」 、 これは富山県のホームページの中で、"万葉の華咲く 越の国"のタイトルで、富山県の歴史を紹介するページの書き出し部分です。

古代の都・奈良、平安期の朝廷文化の開花した京都、商家の庶民文化の大阪、そして金沢、富山に代表される加賀、越中は、当時の首都圏であり、我が国文化の中心地であり、先進の文化・芸術の発祥地でありました。それら優れた作品は、いろいろな形で今に伝えられ、それらに触れますと、遥か離れた東国の上州・群馬に生まれ育った管理者にとっては、思わず襟を正すというか、憧れと好奇の思いが入り混じった不思議な心境になります。

古事記、日本書紀の国造りの神話の世界から、万葉集などでの詩歌、式部源氏や多くの随筆などの文書・書画文化の発展を通じて、平安期の禁中、貴族の詩歌管絃に彩られた華麗な宮廷文化が開花、やがて中世、武家の台頭と執政がはじまり、群雄割拠の戦国内乱の末、関が原を制した徳川氏の治世下、戦火が遠のき、庶民社会生活の向上とあいまって、各地に独特の個性豊かな文化芸術が興隆し、各地方の特徴を持った固有の文化芸術が育まれました。各地方での独自、独特の発展が著しかった文化のひとつに、五穀豊穣・無病息災を神仏に祈る文化、祭文化がありました。

今回、高岡の曳き山祭の山車(現地の標記は"車山"で、通常の呼び名は"だし"ではなく、"やま")を、実際に自分の眼で見、現地の皆さんの解説を拝聴、拝読して、高岡の御車山が我が国の漆工、金工、染織の最高の技術で生れた優れた芸術作品である事を知り、素晴らしいものに出会えた感動を覚えました。

我が国の最高の工芸の技が投入されておる御車山を紹介するには、管理者の拙い知識では到底及びません。帰宅後、高岡市教育委員会発行の"華やかな神の座"「高岡御車山」の刊行物を取り寄せ、勉強させて頂き、高岡の"やま"は、正に成熟した我が国の工芸文化の権化である、と感嘆いたした次第です。これから、ご紹介する高岡 "御車山祭見聞録"の内容は、管理者が実際に眼で観た"やま"の巡行の様子を記述するものですが、"やま"に施工された彫り、幔幕などの工芸品の内容は、上述の高岡市教育委員会発行の"華やかな神の座"「高岡御車山」に掲載された記述を参照して、ご紹介致します。

この冊子「高岡御車山」は、"御車山の由緒"の中で、この山車を次ぎの様に紹介してます。高岡御車山は、慶長十四年(1609)に前田利長が高岡に城を築いて町を開いたおり、城下の大町に与えたもので、祭礼の山車として、奉曳きしたのが始まりと云われている。伝承によれば、天正十六年(1588)に豊臣秀吉が京都の聚楽第に後陽成天皇と正親町(おおぎまち)上皇の行幸を仰いだときに使用された鳳輦(ほうれん)の車を加賀藩初代藩主前田利家に下賜し、それが利長に伝わり、利長が高岡町民に与え、改装をさせたものであるという。

御所車形式に鉾を立てるなど、京都祗園の祭礼に倣って鉾山に改造され、高岡の総鎮守の高岡関野神社の祭礼時に御輿とともに曳き廻され、高岡町民の心意気と財力に支えられ、格式を保ち、高岡の金工、漆工、染織等の優れた工芸技術の装飾が車輪や高欄、長押(なげし)等に施された日本でも屈指の華やかな山車である、と御車山を紹介しております。その内容をひとつひとつ読むうちに、管理者は、すっかり御車山の虜になってしまいました。

鳳輦 屋形の上に金銅の鳳凰をつけた輿。即位、大嘗会(だいじょうえ)などの晴れの儀式の際の天皇の乗り物(広辞苑)。鳳輦の車とあるのは、担ぐ形の輿に車輪を仕立てたものか。 
加賀藩二代藩主 前田利長が開いた歴史ある城下町、高岡

5月1日、朝6時ちょっと前、高岡駅着のJR能登を下車しました。早朝のためか、降車客は疎らでしたが、絶好の祭日和で、高岡の市街は明るく輝いておりました。早速、駅の観光センターで手に入れた御車山祭の案内リーフレットに眼を通しながら、駅舎内の軽食店で朝食をとった後、駅舎から外へ出てみると、広いローターリの歩道脇の植え込みの囲いの中に、大伴家持の立像がありました。高岡が歴史の古い由緒ある町であることに思いを強く致しました。

画像は、高岡駅正面。時計の時刻は7時10分前。花壇の植え込みの中に大伴家持の像。画像をクリックしますと、拡大します。拡大画面のブラウザーの左上の「戻る」で、ここへお戻り下さい。

路面電車の軌道に添って歩道を歩き出しました。丁度、駅へ向う路面電車が通過しました。街中の路面電車を見るなんて、久しぶりのことでした。廃線予定だった加越能鉄道万葉線を、市民の強い要望で、第3セクター万葉線(株)としてH14年に発足した市民の脚の電車。大伴家持と云えば万葉集が連想され、家持が役人として過ごしたという高岡の歴史の古さを感じさせます。

画像は、高岡、新湊両市を結ぶ万葉線。画像をクリックしますと、拡大します。

軌道が右折する交差点の片原町の標識を見て、リーフレットに載っている曳き山の整列する場所がここなんだなと思いながら、そのまま真っ直ぐ進んで、交差する商店街の左方向をみますと、道の真中に背の高い1本柱を立てた台車が止っておりました。組み立て作業中の御車山だとすぐにわかりました。捜していたものが見つかった思いで、小走りに近寄りました。

台車には既に豪華な飾り彫金が輝く黒漆塗りの御所車が取りつけられ、柱の中途には金色に輝く釣鐘が取り付いておりました。リーフレットから一番街通の御車山とわかりました。御車山の組み立てが観覧出来ればと期待していたので、組み立て完成迄を見届けようと腹を決め、カメラ片手に組み立て作業を最後まで観覧させて貰いました。

組み立て作業の様子をお伝えする前に、訪れた高岡市がどのような都市であるのか、明治22年(1889)4月に日本で初めて市制が施行された時に、大阪、京都、福井、富山などの大都市と肩を並べて一緒に、市制が敷かれた高岡の街とはどんなところなのか、その一端をご紹介します。

左画像は、高岡駅の観光センターで入手した高岡御車山祭のリーフレット。右画像は、左図の祭リーフレットに掲載のものをコビーした高岡市へのアプローチ交通図。管理者は高崎から、長岡、直江津経由の夜行のJR急行に乗車。共に画像をクリックしますと、拡大します。拡大画面のブラウザーの左上の「戻る」で、ここへお戻り下さい。
城下町から果敢に転身を企て、商工業都市に発展した高岡

御車山祭の開催地の高岡とはどん所であるのか、御車山祭のリーフレットと冊子「高岡御車山」を参照して、ご紹介します。

午後の御車山の巡行を観覧途中の午後2時頃、横道にそれて高岡市の古城公園に寄ってみました。御車山の巡行で止っていた万葉線が運行を再開したので、高岡訪問記念にと、坂下町で乗車し本丸会館前で下車しました。短い距離でしたが久しぶりに乗った路面電車は楽しかったです。案内板に従って暫く歩くと、水を湛えた深い濠にぶつかりました。濠の規模からしても、高岡城はかなり大きな城郭であったろうと想像しました。濠の小橋を渡り、木陰の小径を上ると、本丸広場と掲示された鬱蒼とした樹木に囲まれた広場にでました。

散策路を進むと神社の社殿が見えてきました。射水神社・いみずじんじゃでした。その時は、この神社は城主の守護神でもあるのかなと思ったのですが、後で知ったのですが、この射水神社は古代から高岡の地で崇拝されている神社で、「延喜式」神名帳では越中で唯一の「名神大社」に選ばれた由緒正しい、高い格式を持った神社でした。毎年、この神社の春祭で行われる"築山行事"で、神の降臨を迎えるために造る臨時の祭壇の様式が、御車山の構造・様式に影響を与えと、冊子「高岡御車山」は、その"御車山の形姿"の中で述べてます。

冊子「高岡御車山」は、その"高岡の歴史"の中で、高岡城とその町づくりの様子を紹介してます。要約しますと、加賀藩二代藩主前田利長が、「関野」と呼ばれていた荒地に城を築いたのは慶長十四年(1609)で、周辺の前田氏に縁のある地から住民を高岡に呼び寄せて町造りをした。武士、町民併せても五千人に満たない人々であった。利長は経済の物流を活発にする町造りを考え、北陸道に繋がる往還筋を城下に通らせ、それに添った町割をした。武士以外の町民の住む地域・町割は、城の西方に40間四方の碁盤目に割り振られ(筋道で区切った町割)、町人は間口1間半から3間、奥行き17間の敷地が藩より無租地として分け与えられた。このような町は「本町」と呼ばれ、35町にも及んだ。現在、御車山を所有する「山町」は本町の中心に位置する。

高岡城を築いた利長は慶長十九年(1614)に死去した。その翌年、元和元年(1615)幕府の一国一城令(前田家の領国は加賀・能登・越中)により、高岡城は廃城となり、家臣団は金沢へ引上げたため、当然高岡町はさびれ始めた。三代藩主前田利常は、高岡町民の転出を禁じ、商工業の町への転換を図った。廃城跡地に米蔵を設置して、高岡を米集散の中心地にした。同じく塩蔵も城跡に設け、専売品の塩を高岡に集めたり、川原町に魚問屋を集めたりして、越中全域の米、魚介類の供給基地に育てた。布・綿の取引や鋳物の生産・流通にも尽力するなど、産業振興に努め、高岡を金沢に次ぐ商工業都市に成長させた。

加賀藩主の優れた施策と町民の努力の結果、財力を貯えたであろう高岡であったからこそ、下賜された貴重な御車山を四百年近くに渡って、贅を極めた最高の美術工芸品で飾り、今日迄維持保存し、伝承できたのかも知れません。


高岡訪問で最初の立ち寄ったのが一番町であったのは、偶然のことでした。
高岡駅前から路面電車の軌道のある道路を進み、電車の軌道が右折する片原町交差点を曲がらずに、そのまま真っ直ぐ歩きますと、商店や民家の軒先に祭礼の注連縄(しめなわ)を飾った商店街に出ました。交差点に立ち止まって左方向を見ましたら、道の真中で、背の高い1本柱を立てた台車が止っておりました。組み立て作業中の御車山だとすぐにわかりました。近づいてみますと、車の組み立ての真っ最中で、囃子衆が乗り込む場所と思える格子窓のある楽屋の屋根上の周囲には、既に高欄が取りつけられておりました。正面出入り口両端の2台の提灯台に、三つ巴紋の入った提灯が架けられている山宿の中から、次々と取りつける部材が運び出されておりました。

高岡訪問の直前、祭の様子がどんなものか、御車山祭のホームページを発信なされておられる高岡市木船町にお住まいの"和三郎"さんに、管理者がメールで問い合わせをしましたところ、御丁重なご返事のメールを頂きました。その中で、和三郎さんは、祭前日の「宵祭」の様子を知らせて下さいました。「私達、山町の人間にとって一番祭りらしいのは,30日の夜の宵祭です。午後7時よりお祓いをうけ、見学者にお神酒を振舞ったり,町内によっては手拭,せんべいなどを無料で配布しています。また各町の山宿でデザイン・スタンプも押して廻る見学者も多いようです。この夜は,観光客だけでなく遠方より戻った親戚縁者も山宿を中心にお酒を組み交わしたり旧交を温めたり、観光客をもてなしたりする夜となります」と、話されております。管理者は日程の都合が付かず、残念ながら、宵祭は見られませんでしたが、宵祭の楽しさが伝わってまいります。

画像は組み立て途中の一番街通の御車山。背景の2階屋が山宿。画像をクリックしますと拡大します。拡大画面の左上の「戻る」で、このページにお戻り下さい。

山宿と呼ばれるこの民家が御車山祭の舞台のひとつになってます。冊子「高岡御車山」は、"御車山祭の行事"の中で、祭前日の宵祭について「各町内の山は、収蔵庫から曳き出され、「山宿」の前に運ばれる。山宿では、人形・幔幕の飾り付けが終了した後、入魂式を行い、町内の関係者や見物人が集い、「宵祭」が行われる。近年は、各町内とも囃子を流し、酒を振る舞い、町名や山を染め抜いた手拭や煎餅を配るなど、より盛大化する傾向なっている。今日迄の三百九十年もの歳月の間、山町町民の心意気により護り続けられた行事です」と、紹介してます。これから、高岡の御車山祭をご覧になられる計画のある方は、この宵祭は必見のようです。

画像は一番街通の御車山の山宿。取りつける部材が、次々と運び出されておりました。




一番街通の御車山の組み立ての様子は、別ページに纏めましたので、このアイコンをクリックしてご覧下さい。

御車山の組み立て


御車山7基の隊列巡行と勢揃いの様子

高岡訪問に先だって、御車山祭のホームページを発信なされておられる高岡市木舟町にお住まいの"和三郎"さんに、メールで問い合わせを致しました。ご返事のなかに、・・ただ雨が 降ると、巡行は取りやめになります。この際は遠方よりお越しの方々には本当に申訳 なく思います・・と、ありましたが、幸いにも絶好の祭日和に恵まれ、和三郎さんの暖かいお気遣に今でも感謝しております。

「春の高山まつり」へ行ったとき、現地到着直前に雨となり、当然、外での勢揃い展示と巡行は取りやめ、3,4台の屋台を屋台倉の中と屋台会館で観ただけで、出直しをした経験がありましたが、ビニールシートを被せた屋台や山車の姿でしたら、観ても意味ありませんし、文化財保護の観点からも潔く中止すべきことです。

祭に対する高岡の皆さんの気構えに感心し、見習いたいことが多々ありましたが、そのひとつに、祭当日の天気の様子で、車山の巡行をやるか、やらぬかの判断を山町の山役員の全員集合の席で決めるそうです。午前9時と午前11時の時点で、天候の回復の予想を見極めて、通常通り実施するか、短縮した巡行路で行うかを決定する、ということです。周知徹底が図られ、混乱が防げて、まことに合理的な運営手法と思いました。


 5月1日、祭当日
通常の巡行路

高岡市ホームページより
転載
11時(坂下町曳き揃い)→11時20分(坂下町出発)→11時40分(片原町交差点)→12時00(片原町交
差点−勢揃い)
→12時20分(奉曳開始) →12時45分(鴨島交差点)→13時25分(博労町) →14時〜15時頃(利屋
町−休憩)
→15時45分(小馬出町)→16時30分(源平町)→16時50分(三番町交差点)→17時(二番町)→18時
(高岡関野神社−曳納)

★天候不安時、午前9時の
会合で奉曳決定した場合。
片原町の勢揃い式なし
12時(関野神社前
−曳揃い)
→12時45分(関野神社前−出発) →13時25分(博労町)→14時〜15時頃(利屋
町−休憩)
→15時45分(小馬出町)→16時30分(源平町)→16時50分(三番町交差点)→17時(二番町)

18時(高岡関野神社−曳納)

★天候不安時、午前11時
の会合で奉曳決定した場合。
片原町の勢揃い式なし

14時(利屋町−曳揃い)→15時(利屋町−出発)→15時45分(小馬出町)→16時30分(源平町)
→16時50分(三番町交差点)→17時(二番町)
→18時(高岡関野神社
−曳納)


この祭街路図は、当日駅で入手した祭リーフレットに記載されている"御車山奉曳順路"図を参照して、管理者が作りました。

祭当日の早朝より各山宿の前で組み立てられた7基の御車山は、出発時の修祓を行った後、町内を曳き廻して、午前11時までに坂下町に勢揃いしました。管理者は一番街通の山の組み立てと、出発式の様子を観させて貰った後、一番街通の山が坂下町の集合場所へ到着する迄、同行しました。一番街通の出発式・修祓、町内巡行の様子は、「一番街通の御車山の組み立て」の中の場面R以降に載せてありますので、クリックしたご覧下さい。

一番街通が山宿を出発して、商店街を東に向って巡行開始した時には、すぐ後に御馬出町、二番町そして通町の3基の山が追いつく様に進んで来てました。7基の御車山巡行列順は、通町を先頭とし、御馬出町、守山町、木舟町、小馬出町、一番街通と続き、しんがりが二番町になりますので、坂下町の集合地点では、この順番に整列しなければならないのだろう、と思ってまし。しかし、結果を先に申しますと、当日の実際の坂下町交差点での出発整列順番は正規の巡行列順でなく、一部が入れ替わってました。

駅前から北に延びる大通りとの交差点内で、一番街通が脇に寄って、後の3基の山を追い越させました。そこで、一番街通以外の御車山を初めて観る機会となりました。大人の背丈をはるかに超える二番町の大車輪は圧巻でした。漆黒の地に彫金金具が映える御所車におもわず息を呑む思いでした。加えて、二番町の車輪と車軸の軋む音は他の山のそれより数段と大きく、異様にさえ感じましたが、この軋みの音も四百余年の伝統を保った重みのあるものであると知ると、不思議にも気になら無くなりました。

源平町を過ぎ、坂下通りの交差点の手前で山の列は止りました。クレーン車のクレーンの先端に乗った作業員が交差点の交通信号機の取り付け位置をずらしておりました。この交差点を右折して、坂下町交差点の手前に、通町を先頭に7基の御車山が整列を終わったのが、11時少し過ぎでした。

左画像:道に下ろされている軌道の架線。車道脇に寄せられ、山の巡行が通過すると、直ぐに架線の復旧工事が始まった。右画像:作業者の右手に握られているのは電車のパンタグラフが接する架線。

坂下町に出発の整列が終わるまでの間、山が隊列巡行する大通りでは、路面電車の架線を取り外す工事が10数人の作業員で進められておりました。大勢の電力会社の作業員が出て、山の巡行路の交通信号機の取り付け位置をずらすだけでなく、巡行開始時刻直前まで運行していた路面電車の、坂下町交差点から片原町交差点までの長い距離の架線を取り外す作業を見て、本当に感心しました。電車軌道の真上を走る架線(送電線)を支える支線を、道路の両端の十数本の電柱から取り外すという手間の掛る作業をテキパキとやっておる様子は見事でした。この様なひたむきな大きな陰の力に支えられて、華麗な御車山の巡行が可能になっているのだよと、教えられる想いでした。

「公共機間の乗り物の架線を外してまでも山車の巡行を行うなんて、小生の住む町では考えられません。埼玉県秩父市の秩父夜祭では極く短い距離の鉄道の架線を外してますが、御地と全く同様に、市民の圧倒的支持がある曳き山祭礼ですから出来ることで、関東でも例外です。御地の御車山祭りが、町の歴史と切っても切り離せない深い伝統を持った祭りであり、今でも市民の絶大なる支持を得て、市民の誇りにもなっている祭礼であるからこそ、電車の架線を外すなんてことが可能なのだ、と思いました。」 
これは、管理者が御車山のことで度々、問い合わせをさせて頂いた高岡市木舟町にお住まいの"和三郎"さんへ、御礼のメールをお送りした際に、書き添えた感想の一部です。


左画像:巡行順列一番の通町。出発直前に高欄の前中央の唐子人形が鉄棒の前方回転のカラクリの所作を行う。すぐ後に映ってます山は御馬出町でなく、二番町です。右画像:三番目に巡行を開始した御馬出町の山。

11時20分、坂下町通りの交差点を出発した先頭の御車山は通町です、路面軌道のある大通りに入ったら、すぐに右折するものとばかり思っておりましたら、右折せずにそのまま軌道を横切って直進します。えぇ、何で、と思ってましたら、通町の山は直ぐにバックして大通りに戻って来ました。随分変わった巡行をするのだな、と思いましたがその理由は後で分かりました。

御車山祭での7基の御車山巡行列順は、通町を先頭とし、二番が御馬出町、三番が守山町と、順番が決まっているのでしたが、当日の出発始点の坂下町通りでの整列順序は先頭の通町の次ぎは二番町でした。通町と二番町の両山は、進み出た坂下交差点のすぐ脇で待機を始めました。順番のトップの山とラストの山が、出発地点で他の山を見送るという形は何か理由があってのことでしょう。二番町に続いて、御馬出、木舟、守山、小馬出、最後が一番街通の順番で、巡行を開始し、通町、二番町と同様に、軌道を横切って、坂下町通りを直進してから、すぐにバックして、軌道のある大通りに戻って、片原町交差点方向に巡行を始めました。出発時では木舟町が守山町より先でした。

7基全部の車山が一端、坂下町通を直進して、直ぐにバックをして交差点に戻ってくるのは、昔の祭礼時にやっていた高岡城内参拝の名残であるとの説明が冊子「高岡御車山」に載っておりました。この坂下町交差点直進の経緯と巡行出発時の列順について、地元高岡市木舟町の"和三郎"さんから、詳しい解説のメールを頂戴しましたので、内容をそのまま掲載させて頂きます。地元にお住まいの方でなければ承知しえない貴重なお話です。尚、管理者は気が付かなかったのですが、町の名に坂の文字が使われているように、坂下町は坂のある町でした。また、巡行出発の列順は出発場所への到着順になっておることも、和三郎さんのご説明でわかりました。ご連絡ありがとうございました。

坂下町については、到着順に三基が坂に上がり、所望個所でのお神楽終了後引き下がり、ついで四基が上がりますが、ここまでは到着順にやります。降りてから電車どおりで順番を整え、かって江戸時代に役所のあった四つ角に向かって進みます。ただ坂に上がり始めたのは最近のことです。大正10年ごろ、この大仏通りに商店が揃いこの町の活性化に拍車をかけるため、坂の中ほどに住み、関野神社の総代を務めていた沖さんの要望によるものです。総代の沖さんの功績が多きかったので車山の世話人たちも同意したものと思われます。昔はお城に近いこの坂まで多分上がっていたのではないかという説得も功を奏した要因だと思われます。御車山を運営する人たちも人間ですから、御車山に貢献されると敬意を払って若干の順路を変えたようです。この坂下町の四つ角もお城がなくなった後は、この四つ角をそのまま曲がっていたようです。昔はこの電車通りに沿って川がありましたが、(昭和30年代まで存在した)、記録によると、江戸時代にはこの川を越えて坂の入り口を右折して進んでいたのですが、この角にあった開発屋さんが、御車山が進みやすいように自分の家の庇を削ったり、また川にかかる橋を自分で直したりしたので、敬意を払って坂の少し上にあたる正面までまず御車山を上げていたようです。従って現在の巡行路は大正時代以降のものと考えられます。

一番街通が巡行開始をすると、それまで待機していた通町と二番町が巡行を開始して、通町は前を進む5基の山を追い掛け、追い越す形で進行して先頭に立ち、二番町は一番街通の後に続き、巡行のメインイベント「御車山勢揃い」の会場となる片原町交差点に到着するときには、7基の御車山は正規の順列になっておりました。

御車山の巡行の先頭に「獅子頭」を掲げた3人衆がおりました。祭のリーフレットに、坂下町から、露払いとして「源太夫獅子(げんだいじし)」が御車山を先導する、と紹介してます。飛騨高山をはじめ、伝統のある祭では、悪霊や邪神を鎮める獅子舞が祭礼曳きものの先頭に立ちます。

路面電車の架線が外された坂下町交差点から片原町までの車道一杯を使って巡行する7基の御車山が、目の前を通り過ぎる眺めは素晴らしかった。天気も絶好の祭り日和、最高の工芸品の数々で飾り尽くされた曳き山が奏でる静かで雅やかな神楽風のお囃子の音、車輪の軋む音とがはるか遠い昔、往時の御所車の練り歩きもこうであったかと、想像させます。

御車山巡行を先導する坂下町の獅子頭。画像をクリックしますと拡大します。

歩道は観覧客で溢れ、御車山が勢揃いする片原町交差点に辿りつくのも容易ではありませんでした。 やっとのことで、カメラ撮りの場所を確保した時は、既に小馬出町の車山までは横一列に整列を終え、一番街通と二番町の到着を待つばかりでした。オープンな場所に7基の山が勢揃いしますと、まことに圧巻な眺めでした。大きな車輪と地山箱が醸す安定感、金色に輝く鉾留、緑葉に混じって陽に映える赤、黄、白の菊の花、その時代、時代での最先端の最高の技が投入され、染織、漆工、金工の秀逸な工芸品の数々で飾られた御車山は、4百年の越し方に想いをそそる御車山勢揃いの場面でした。

北陸銀行前の片原町交差点に勢揃いした7基の御車山。左から、通町、御馬出町、守山町、木舟町、小馬出町、一番街通、二番町の各御車山。

7基の御車山の前に並んだ総勢200余人の山町の人たち、その半分を占める一文字笠と裃姿の町役員の統一された衣装が目立ちます。国指定の重要有形・無形民俗文化財になっておるということは、唯単に、御車山の価値だけを評価したのではなく、御車山まつりの行事全体、まつり運営の全てが、伝統に基づく決まった手続きを踏んで行われることが要求されます。まつりに参画する全ての人達は、支度にしても決められた衣装を着るなど、決めらている手順に従った行動をすることが要求されるのです。それを見事、高岡の皆さんは遂行しておられます。御車山祭に対して、山町ばかりでなく、高岡全市民が誇りと自負、名誉を感じて、お祭を楽しんでいる様子が伺え、羨ましく感じました。御車山の勢揃いの場面に立ち会えたこと、生涯の思い出になりました。


華麗な御車山の巡行をより引き立たせるのが、古式に乗っ取った衣装を身につけ、所作を演じる山町の皆さんの存在です。その筆頭は山の前後の轅(ながえ)に縛り付けた軛(くびき)を操作する曳手(ひきて)衆です。各山町で、それぞれ伝統のある半纏、鉢巻、白足袋に草鞋(わらじ)履きで身を固め、キビキビした動作で車山を操縦します。

各御車山には、平板な一文字笠を被り、麻裃に身を固めた10名ほどの山役員と、山町の紋を染め抜いた法被を着た鈴棒引き(りんぼうびき)が随行して、御車山の前後左右を警護します。

飾り山には町内の子供が袴姿で乗ってます。すべて決められた衣装を着ております。

「土蔵造りの資料館」に展示してありました半纏。左は一番街通、右は木舟町。冊子「高岡御車山」の説明を引用しますと、染織業界言葉で、一番街通の半纏は「三つ巴紋雲龍背模様松皮菱に巴字裾模様(みつともえもんうんりゅうせもようまつかわびしにともえじすそもよう)」、木舟町の半纏は「雲龍背模様松皮菱に右一つ巴紋裾模様」。綿入れになっているのか、触るとふっくらした厚手の祭衣装。ともに山町独自の豪華な半纏で曳き手を引き立てています。全て山町の半纏は高級品で、調達費もさぞ高価になるだろうと推測しました。


御車山、7基の巡行・勢揃いの場面を動画でご覧下さい

最近は、パソコンの処理能力の驚異的な進歩と、インターネット・ウェブ・サイトの接続環境の高速化が進み、データー処理量の増大化が実現し、インターネットオンラインで動画を楽しまれる方が多くなりました。絢爛豪華な祭礼曳きものは、現地で直接ご覧になることが一番なのですが、どんな様子なのかを静止画だけでなく、動画でご覧になってから、それでは一度見に行こうかと実際に現地へ鑑賞しにお出かけ頂く動機になって貰えればと、御車山巡行の様子の一部を動画でご紹介します。

高速で安価なサイトの受信環境は急速に整って来たのですが、反面のそのデーターを送り出す方、つまり送信のためのレンタル・サーバーの環境は、まだまだ充分ではありません。利用データー量の制約があり、利用料金もまだ高止まりの状況です。データーを発信する側の立場から申しますと、不本意ながら、動画の鮮明さが犠牲になっても、動画のデーター量を落として発信せざるを得ない状況です。
MPG フォーマットの生データーのままでウェブ・サイトへ発信が出きる様になれば、綺麗な動画をオンラインで皆様に鑑賞頂けるのですが、趣味の個人サイトの管理者の泣き所です(笑い)。

 

御車山7基の坂下町交差点出発から、片原町交差点までの隊列巡行の様子と、勢揃いの様子のビデオ動画です。

ファイルAに、高岡市の市長さんの挨拶も入っております。

通信速度/秒

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通信環境

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コマ数/秒

通信環境

Windows OS に標準装備されている
Microsoft Media Playerで、再生されます。

お使いの通信環境に合わせて、クリックして下さい。

ダイアルアップ、ISDNの場合、画素数が4分の1に減りますので、画面小さくなり、コマ落ちの不自然な動画になってしまいますが、音声は大丈夫ですので、御車山のお囃子と車輪の軋む音をお楽しみ下さい。

接続とバッファで、動画が出る迄1,2分待ちます。

250kbps

320×240

30fps

ADSL

FTTH

56kbps

160×120

15fps

Dialup

ISDN

@御車山7基、坂下町交差点曳き揃い、巡行出発の場面

A御車山7基、片原町交差点迄の隊列巡行と7基勢揃の場面

 


 

 

   

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7基の御車山の各部の紹介 鉾留・本座・幔幕
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