「大和朝廷による統一国家が成立した頃、北陸一帯は越(高志)と呼ばれ、北方の蝦夷に対する征討や防衛の重要な拠点でした。大伴家持が越中の国守として赴任した天平18年(746)の頃の越中は・・」 、 これは富山県のホームページの中で、"万葉の華咲く 越の国"のタイトルで、富山県の歴史を紹介するページの書き出し部分です。
古代の都・奈良、平安期の朝廷文化の開花した京都、商家の庶民文化の大阪、そして金沢、富山に代表される加賀、越中は、当時の首都圏であり、我が国文化の中心地であり、先進の文化・芸術の発祥地でありました。それら優れた作品は、いろいろな形で今に伝えられ、それらに触れますと、遥か離れた東国の上州・群馬に生まれ育った管理者にとっては、思わず襟を正すというか、憧れと好奇の思いが入り混じった不思議な心境になります。
古事記、日本書紀の国造りの神話の世界から、万葉集などでの詩歌、式部源氏や多くの随筆などの文書・書画文化の発展を通じて、平安期の禁中、貴族の詩歌管絃に彩られた華麗な宮廷文化が開花、やがて中世、武家の台頭と執政がはじまり、群雄割拠の戦国内乱の末、関が原を制した徳川氏の治世下、戦火が遠のき、庶民社会生活の向上とあいまって、各地に独特の個性豊かな文化芸術が興隆し、各地方の特徴を持った固有の文化芸術が育まれました。各地方での独自、独特の発展が著しかった文化のひとつに、五穀豊穣・無病息災を神仏に祈る文化、祭文化がありました。
今回、高岡の曳き山祭の山車(現地の標記は"車山"で、通常の呼び名は"だし"ではなく、"やま")を、実際に自分の眼で見、現地の皆さんの解説を拝聴、拝読して、高岡の御車山が我が国の漆工、金工、染織の最高の技術で生れた優れた芸術作品である事を知り、素晴らしいものに出会えた感動を覚えました。
我が国の最高の工芸の技が投入されておる御車山を紹介するには、管理者の拙い知識では到底及びません。帰宅後、高岡市教育委員会発行の"華やかな神の座"「高岡御車山」の刊行物を取り寄せ、勉強させて頂き、高岡の"やま"は、正に成熟した我が国の工芸文化の権化である、と感嘆いたした次第です。これから、ご紹介する高岡 "御車山祭見聞録"の内容は、管理者が実際に眼で観た"やま"の巡行の様子を記述するものですが、"やま"に施工された彫り、幔幕などの工芸品の内容は、上述の高岡市教育委員会発行の"華やかな神の座"「高岡御車山」に掲載された記述を参照して、ご紹介致します。
この冊子「高岡御車山」は、"御車山の由緒"の中で、この山車を次ぎの様に紹介してます。高岡御車山は、慶長十四年(1609)に前田利長が高岡に城を築いて町を開いたおり、城下の大町に与えたもので、祭礼の山車として、奉曳きしたのが始まりと云われている。伝承によれば、天正十六年(1588)に豊臣秀吉が京都の聚楽第に後陽成天皇と正親町(おおぎまち)上皇の行幸を仰いだときに使用された鳳輦(ほうれん)の車を加賀藩初代藩主前田利家に下賜し、それが利長に伝わり、利長が高岡町民に与え、改装をさせたものであるという。
御所車形式に鉾を立てるなど、京都祗園の祭礼に倣って鉾山に改造され、高岡の総鎮守の高岡関野神社の祭礼時に御輿とともに曳き廻され、高岡町民の心意気と財力に支えられ、格式を保ち、高岡の金工、漆工、染織等の優れた工芸技術の装飾が車輪や高欄、長押(なげし)等に施された日本でも屈指の華やかな山車である、と御車山を紹介しております。その内容をひとつひとつ読むうちに、管理者は、すっかり御車山の虜になってしまいました。