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"寄居秋まつり" 2日目正午、さぁ、いよいよ、山車巡行の開始だ!


 平成13年11月3日(土)午前10時、当番町の栄町町内に安置された仮宮で、各町の氏子総代および親行事が参列し、祭礼の安堵を祈念する神事が行われた。
 正午前から、8基の山車・笠鉾が各町会館を出て、整列場所へ移動を開始した。  

 山車・笠鉾の町と区から、8基の鏡餅が旅所・仮宮の神前に供えられている。

 前日の2日の午後5時、各町より出発した山車・笠鉾は宗像神社前に集合。囃子の奉納後、午後6時、神輿の先導で山車・笠鉾は宗像神社を出て、栄町内の仮宮へ移動、渡御の神事は無事終わってます。

 正午少し前、各町の山車会館を出発した山車・笠鉾は道行き囃子を高らかに、中央通りを目指して巡行を開始しました。本通りに山車が姿を現すと、道行く人達から拍手も起きて、さぁ、お祭りだといった華やかな雰囲気になり、祭り好きには幸せを感じる瞬間です。山車とお囃子、いやぁ、応えられません。町の人達が本通りと中央通りに交差点付近にぞくぞくと集まってきました。中央通りの片側の路面には各町の名前がペイントされており、到着した山車・笠鉾が整列を致します。年番町の栄町が先頭で、以下 笠鉾の宮本、山車の本町、中町、笠鉾の常木、山車の武町、茅町とつづき、最後が笠鉾の花町です。年番は順番で毎年交代とのこと。笠鉾山車の造花が華やかで、山車の隊列の見映えを一層高めてます。

 全山車が到着・整列すると、それに合わせるように、交差点近くの寄居町会館前の特設ステージ上で、山車巡行前のセレモニーが始まりました。祭礼実行委員長の町民へのメッセージの後、スタート合図が発せられ、囃子が一段と大きく奏でられる中、いよいよ山車巡行が始まりました。

 画像左は茅町。画像上は巡行中の武町。この武町の画像をクリックしますと、巡行中の各山車・笠鉾の動画(音声なし)が御覧頂けます。動画をご覧なるにはリアルプレイヤーが必要です。ストリーミング方式のリアルプレイヤーはリアルネットワークス社(RealNetworks, Inc.)より、無償でダウンロードできます。
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 動画で映る山車の順番は、武町→花町→栄町→本町→中町→宮本→武町→常木の順番です。

尚、この隊列巡行の時間、茅町は寄居会館前ステージで、囃子衆が囃子の公演中で、隊列巡行に参加してないので、画像にありません。

 整列位置を出発した8基の山車は、本通りを左折して進むグループ、右折するグループの二手に別れて本通りを巡行して、両グループとも中央通りに戻って、正喜橋方向へ進みます。朝日生命を過ぎた道路際に、お囃子大会の看板を掲げたテントが張られ、前を横切る各山車のお囃子を採点する審査委員が詰めておりました。

 寄居町の8基の山車・笠鉾の画像と解説が、付属ページ「寄居町の一本柱形式の山車と笠鉾の構造について」の中の"山車総覧"にありますので、是非、ご覧下さい 


 栄町は平成13年寄居秋まつりの年番町です。かねて町役場からお名前をお聞きしていた栄町の祭礼親行事役の山辺則雄氏を訪問したところ、副行事役の田口須男氏を紹介下さいました。田口氏は祭礼行事に精通されており、栄町のお囃子の指導者でもあり、氏から寄居の山車について、いろいろお話をお聞かせ頂き、この見聞録のまとめに大変、役立たせて頂きました。

 
 田口さんの案内で、栄町の山車蔵と会館を見学しました。山車蔵の2階に登ると、山車を分解して保管していた当時の収納箱が沢山ありました。今では山車は分解せずに、組立た状態で保管するのが当たり前になってます。ですから、収納箱の中は空っぽですが、蓋の裏側に明治十七年新調、栄町の墨書があります。田口さんは、今の山車は新造したのではなく、何処からか購入して手直ししたと思われる、と話してました。

 明治初年頃、寄居町で大火があって、町の殆どの山車・屋台が焼失してしまって、大火のあった当時、今の山車と共通する一本柱型のタイプの山車が存在していた記録のある川越から購入したのではないか、との推察が山車研究家の間でなされております。

 大火で焼失したかどうかは知らないが、栄町の箱に記載されてまう明治十七年当時の栄町の戸数は数十戸であったことから考えても、新造でなく、中古山車を買ったものであるとしか考えられないと、田口さんも話しておられました。


 栄町会館に保管されてます山車人形"関羽"の頭部を見させて貰いました。胴体はないが、人形の腕と衣装も保管されておるそうです。年代ものを感じさせる収納箱の蓋に、初代 原舟月と墨書されてます。そのとおりであれば、今の山車は江戸末期以前に作られたと考えられます。文明開化で、道路に電灯線が出現し、背丈の伸縮ができない一本柱では人形の搭載が不可能となり、山車人形をはずしての巡行が習慣化した結果、人形のお蔵入りが長年つづき、その間に破損したり、腐食したりして廃棄されてしまったことは、やむを得ないことです。せめて、この"関羽"人形の姿が載った山車の古写真があったら、と願うばかりです。

 この他の寄居町の山車人形は、武町が猿候人形、中町は猩々(しょうじょう)、本町は神武天皇だったそうです。


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