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平成15年 弥栄神社御祭礼の巡行屋台の解説とスナップ画像

 このページは平成15年5月25日の長野市の弥栄神社御祭礼の屋台巡行を観た管理者が撮影した8基の屋台のスナップ写真を紹介します。各屋台の解説は、地元紙「長野市民新聞」平成15年5月24日号に掲載されていた記事を、長野市民新聞社編集部殿 shiminm@avis.ne.jp のご了解を得て、そのまま引用したものです。 

権堂町


 立ち方・吉原仁美。各屋台の立ち方は屋台のシンボルにもなっている。画像をクリックしますと、拡大します。ブラウザーの「戻る」で戻って下さい。

権堂町屋台の舞台下の楽屋は狭いが、大太鼓・小太鼓、笛、三味線などの7,8人の囃子衆がお囃子に懸命だ。画像をクリックしますと、拡大します。

 善光寺山門前を進む権堂町獅子連。画像拡大します。

獅子頭を担ぐ人の足袋足が見える。

獅子頭の大きな口と、小さく見える口の中の担ぎ手の顔。

雌獅子。若い女性が雄獅子に負けぬ元気さでした。

雌獅子のお囃子は底抜け屋台の中で、歩きながら演奏する。画像の日付の5の右上の丸いものは底抜け屋台の車輪です。

 屋台の解説

@権堂町

毎回の屋台巡行で、"先陣"を切る存在。数十人がユーモラスな表情をした先頭の大きな獅子頭を担ぎ、屋台のお囃子に合わせて舞う「勢(きおい)獅子」は名物だ。今回から同町獅子連が製作した雌獅子も初登場し、子供から大人約200人が勇壮に練り歩く。屋台は明治末から大正期に建造された木製漆塗りの高さ約4メートル。下段はお囃子、上段は踊り用の舞台を設けた2段構造で、同調独特の囃子と藤間伊千康社中の踊りも見物だ。青木秀一郎区長は「先陣を努める町として、不景気を吹き飛ばす元気な獅子舞を披露したい」と意気込んでいる。

 屋台踊り 

大和樂「おせん」
▽藤間伊千康社中。
立ち方・吉原仁美。
 後見・藤間伊千康。



















































































南千歳町

善光寺山門前で、舞の奉納。立ち方・藤扇裕士(男性)。屋台正面が舞台、うしろ奥が楽屋(下座)の屋台形式。車輪は2輪。画像をクリックしますと、拡大します。

 善光寺山門前で、舞の奉納。山門に設けられた屋台奉納答礼所には善光寺上人はじめ、大本願、大勧進の高僧が並ぶ。画像は拡大します。

 御祭礼の栞の紹介には、昭和5年の作成の白木造りの長野型の代表的屋台とあります。画像をクリックしますと、拡大します。

 彫刻類は無いが、後部の楽屋の四方の窓枠と御簾をはじめ、屋台縁側を囲む手すり勾欄など清楚で品のよさを感じさせる屋台です。画像をクリックしますと、拡大します。

 A南千歳町

 昭和5年(1930年)に、町内の有志約400人の賛助で新調した白木造りの清楚な屋台。奉納舞は、藤扇流家元の藤扇裕士さんが、義太夫節「蝶の道行き」から自らが作詞した長唄小曲「比翼の蝶」で、男踊り女踊りを独りで演じる。恋する男と女が世の垣根を越え、あまりの熱愛に蝶と化して、はかない愛を貫くストーリーだ。「道中ばやし」として盛り上げるお囃子は、若い女性が三味線、カルチャースクールの生徒が鳴り物を担当。「二上がり・四丁目・おおぼし」などを響かせる。町内から170人が参加。清滝慶一区長は「町の心意気を示し、祭りを盛大にしたい」と出番を待っている。

 屋台踊り

長唄「比翼の蝶」
▽立ち方・藤扇裕士 後見・藤扇香之子 























































上千歳町

屋台の仕上がりの豪華さでは西後町と双璧をなす上千歳町の屋台。西後町が総けやきの白木造りに対し、上千歳は総体漆塗り、舞台天井の彫り物、柱や梁の要所に打たれた金色の飾り金具に彩られた豪華な屋台です。

唐破風屋根の下の梁、虹梁(こうりょう)と舞台天井には精細緻密な彫刻が貼られ、屋根を支える正面左右の二本の柱(向拝柱)と後部下座の四本柱に嵌められた金色の飾り金具と、柱や梁の彩色の縁取りが漆に映えて、屋台の見映えを増している。画像をクリックしますと、拡大します。ブラウザーの「戻る」で戻って下さい。

上千歳町の幟旗は、当町の屋台が弥栄神社御祭礼に初参加したのを記念し、同神社の紋が入っている明治期につくられた貴重な年代もの。町名の上に神社の紋。山門の奉納答礼所に居並ぶ善光寺高僧に向って、幟旗を携えた同町区長から奉納の口上が述べられる。画像をクリックしますと、拡大します。ブラウザーの「戻る」で戻って下さい。

出場した8基の屋台のなかで、屋台の造りの豪華さでは西後町と双璧をなす上千歳町の屋台。立ち方の豪奢な和装が一層映える。画像をクリックしますと、拡大します。ブラウザーの「戻る」で戻って下さい。

 B上千歳町

 大正末から昭和初期に、3年ほどかけ、町民がお金を出し合って造ったといわれる屋台は、高さ4メートル80センチの総漆塗り。当時、町内にいた鍛冶屋、漆塗り、左官、染織師などたくさんの職人が力を合わせて仕上げたものだ。同町の注目点は、2本の目印(幟旗)。1本は上千歳町の会所となる小玉屋前にはためく、町のマーク鶴の金刺繍を入れた49年(昭和24)製のもの。もう1本は09年(明治42)に弥栄神社の御祭礼に初参加したのを記念し、同神社の紋が入っているもので、屋台を先導する。歴史のある幟と共に、揃いの浴衣を着た120人が参加。片山幸三区長は「派手やかに、こころ一つに奉納したい」と、話してます。

 屋台踊り

常磐津「屋敷娘」

▽五條多啓諸社中
立ち方・五條多啓冨美  後見・五條千嘉諸



























































北石堂町

屋台の前後が舞台と楽屋(下座)に分かれる構造は南、北千歳町と同形式。漆塗りではなく、彩色なしの白木造りの屋台。画像をクリックしますと、拡大します。ブラウザーの「戻る」で戻って下さい。

大きく流れる唐破風の屋根。屋根を支える向拝柱の向って右は上り龍。左は下り龍。

向って正面の紅梁とその上に嵌れた見事な龍の彫刻。画像をクリックしますと、拡大します。ブラウザーの「戻る」で戻って下さい。

舞台天井の龍の見事な彫刻。舞台左右の上欄間と下座の仕切の襖の上の欄間はどれも彫りもので埋っている。

 C北石堂町

 北石堂町は、現在の中央通りが完成した大正13年(1924年)に初めて弥栄神社の御祭礼に参加してから、屋台造りが始まり、昭和7年(1932年)に完成。今年で創建70年を迎える。高さは参加町で最も大きい約5メートル。昭和39年(1964年)の化粧直しで、正面柱の向って右に「登り龍(のぼりりゅう)」、左に「降り龍(くだりりゅう)」の彫刻が施され、その様子を大きく変えた。

北石堂町が発行した「祭典かわら版」に、長野の屋台がニ輪であることの解説が載っていましたので、紹介します。「長野の屋台は全国でも珍しいニ輪である。それは善光寺と切っても切れない関係があります。善行寺に行くには、大方、坂を上って行きます。ところが屋台の上には踊り子さんたちが乗っているわけですが、四輪だと坂道を上り下りするときに、どうしても傾いてしまいます。それゆえ、長野市の屋台は全国的にも珍しい二輪の屋台になっております」。つまり、二輪でないと、坂を上り下りする時に舞台が前か後へ傾いて、乗っている踊り子さん達が転んでしまうので、坂道を通る時は舵取り衆が屋台の前方に突き出た轅(ながえ)をうまく上下させ、屋台の土台が坂の地面と平行にならない様に操作するのです。そのような操作は二輪でないと出来ないからです。

屋台踊り

長唄 「娘道成寺」
▽兼竹会社中
立ち方・藤間千玉 
 後見・藤間千代枝  





















大門町

土台の四隅に柱を立てて、市松模様の油障子を載せただけ屋根。派手な装飾が一切ない簡素な白木造りの屋台です。三味線、笛、太鼓などのお囃子衆が入る小型の底抜け屋台が後に続く。画像をクリックしますと、拡大します。ブラウザーの「戻る」で戻って下さい。

お囃子衆が入る底抜けは、演奏者各自は歩きながら演奏するのであったが、底抜けに床が張られ、底抜けではなくなってしまった。画像をクリックしますと、拡大します。ブラウザーの「戻る」で戻って下さい。

演奏する五條多啓緒社中の皆さん。全員ご婦人。山車・屋台囃子の奏者とは全く違ったムードです。画像をクリックしますと、拡大します。ブラウザーの「戻る」で戻って下さい。

 D大門町

大門町屋台は、大門上と大門南が一緒に出すようになった大正3年(1914年)ないしは大正4年(1915年)頃から曳行している屋台。華やかな踊りや囃子に主眼を置いた踊り屋台で、高さ約4メートルの舞踊用と、小ぶりで囃子演奏者が入る底抜け屋台との2台構成である。派手な装飾がない簡素は白木造りが特徴である。この形の屋台は大正期から多くの町で登場し、各町がにぎやかさを競ったという。同町は今回、五條多啓緒社中の面々が、吉原情緒を描いた長唄「俄か獅子」であでやかな舞や演奏を披露する。清水翔太郎区長は「なるべく多くの会所で踊り、門前入り口の町としての心意気を見せたい」としている。

屋台踊り

長唄 「俄か獅子」

▽五條多啓緒社中
立ち方・五條多啓直緒
後見・五條多啓諸


















西後町

西後町屋台は総けやきの白木造りの屋台。漆塗りの上千歳町と共に長野祗園屋台の双璧である。画像をクリックしますと、拡大します。ブラウザーの「戻る」で戻って下さい。

明治5年頃に造られたといわれる屋台であるので、道路事情などから小型志向になった昭和期に造られた上千歳屋台より幅が1メートル近くも広い。だから、屋台の風貌がドッシリとした余裕を感じさせる。画像をクリックしますと、拡大します。ブラウザーの「戻る」で戻って下さい。

総けやきの白木造りの屋台全面に、隙間なく取りつけ、嵌め込まれた彫刻の豊富さは出場屋台のなかで随一。画像をクリックしますと、拡大します。ブラウザーの「戻る」で戻って下さい。

正面のニ本の向拝柱上の紅梁に、舞台の天井に、舞台と下座の欄間に、びっしり施された精緻な彫刻が見事。画像をクリックしますと、拡大します。ブラウザーの「戻る」で戻って下さい。

下座の御簾周囲の飾り枠などを飾る豊富な彫刻が目立つ。画像をクリックしますと、拡大します。ブラウザーの「戻る」で戻って下さい。

唐破風屋根の下の虹梁(こうりょう)と舞台天井には精細緻密な彫刻が嵌めこまれてます。画像をクリックしますと、拡大します。ブラウザーの「戻る」で戻って下さい。

 E西後町

 総ケヤキ造りで華やかな彫刻が施された西後町の屋台は、他の町からも一目、置かれた存在です。昭和46年(1971年)刊行の「長野御祭礼史」(小林計一郎著)などによると、社寺の彫刻建築で多くの文化財を残している旧妻科村の宮大工・山崎儀作氏が製作。明治5年(1872年)の御祭礼に間に合ったという。制作費は当時の215両にも上る。同町の「屋台造営義捐録」には83人が名を連ね、総額は804両3分。彫刻類の対価は別に支払われたと考えられるほど豪華な屋台だ。当日は約200人が参列。青沼文四郎区長は「郷土の匠が、その円熟期に手がけた見事な彫刻をご覧下さい」と、話してます。

 屋台踊り

大和楽「祗園の夜桜」

立ち方・花柳菊風
後見・花柳辰志郎
唄・ 梶澤房江 








































































































南石堂町

土台の四隅に柱を立て、屋根は格子の障子を載せただけの派手な装飾が一切ない簡素な白木造りの屋台です。三味線、笛、太鼓などのお囃子衆が入る小型の底抜け屋台が後に続くのが本来の形でしたが、軽四輪トラックが代用されている。画像をクリックしますと、拡大します。ブラウザーの「戻る」で戻って下さい。

各屋台が披露する舞踊は各流派の名取りの本格的演技です。歌舞伎舞踊には普段縁の遠い管理者でも、踊り手が繊細な身振りと指先、手足動きで語り掛けて来る所作に、引き付けられるものを感じました。画像をクリックしますと、拡大します。ブラウザーの「戻る」で戻って下さい。

屋台の先導役を務めるご婦人の民謡踊りはよくシンクロナイズされていて、見応えのある踊りを披露しておりました。

底抜けの代用の軽四輪トラック。

 F南石堂町

昭和初期に造られた四方から見える構造の踊り屋台。総勢170人の行列で練り歩く。四人いる先導役の一人は、女性では初めて副区長の小布施恭子さん(75歳)が務め、慣例に添って裃姿で参列する。「男女共同参画を実践する町として、祭りにも女性の積極的な参加を推進したい」と、大平良三区長。その言葉どおり、祭り準備には50代中心の女性たちが生き生きと取り組んでおり、当日は約70人が新調した浴衣で臨む。市内の民謡グループでつくる「民謡隊」(約30人)も見ものだ。揃いの髪形と衣装で、均整の取れた「善光寺参り」「豊年おどり」を披露、行列に華を添える。

屋台踊り

長唄「藤娘」
立ち方・八田綾香
後見・花柳利芳



































元善町

土台の四隅に柱を立て、屋根は市松模様の油障子を載せただけで、派手な装飾が一切ない簡素な白木造りの屋台です。三味線、笛、太鼓などのお囃子衆が入る小型の底抜け屋台が後に続く。画像をクリックしますと、拡大します。ブラウザーの「戻る」で戻って下さい。

お囃子衆が入る底抜けは、底抜けが動くのに合わせて中に居る演奏者は歩きながら演奏するのですが、底抜けに床が張られ、底抜けではなくなってしまった。画像をクリックしますと、拡大します。ブラウザーの「戻る」で戻って下さい。

演奏する花柳萬利助社中の皆さん。全員ご婦人。山車・屋台囃子の奏者とは全く違ったムードです。画像をクリックしますと、拡大します。ブラウザーの「戻る」で戻って下さい。

G元善町

「踊りや囃子の技術はどこにも負けないはず」と、屋台運行委員長の清水護さん。数少ない市内在住の踊り手で、地元の花柳利紗さんの舞踊を中心に祭をにぎにぎしく演出する。屋台は大門町などと同様で大正8年(1919年)に新調した白木造りの2台だ。住民120名が参加し、高さ約3.8メートルの踊り場を設けた屋台と、囃子方の屋台の順に運行。花柳さんらが寺子屋帰りの町娘のませた気持ちを表現した「手習い子」を各所で披露しながら練り歩く。

屋台踊り

長唄「手習い子」
▽花柳萬利助社中
立ち方・花柳瑠利紗
後見・花柳萬桜
























 

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