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埼玉 所沢市

"ところざわまつり"

平成11年 10月10日(日)

"ゆとり・潤い・活力ある生活文化都市″ 所沢市!

 所沢市の公式ホームページの巻頭の挨拶で、市長は、所沢市を次のように紹介しております。
 「武蔵野の雑木林、狭山丘陵に代表される緑、 狭山湖の水、大空への夢をつなぐ
航空発祥の地、といった素晴らしい環境に恵まれ、自然と都市機能が調和した美しいまちです。私は、生活優先、文化重視をまちづくりの基本理念として、″ゆとり・潤い・活力ある生活文化都市″所沢創造のため、32万市民の皆様と一体になって、まちづくりを進めています。」
 また、埼玉県庁のホームページに、"若い埼玉県"とのタイトルで、埼玉を次の様に紹介しております。

 「埼玉の人口は、昭和30年代の中ごろから、県南部を中心に急激に増加。35年に243万人だった県人口は、52年2月に500万人を突破し、平成3年10月には、650万人を超えた。人口増加率は、一時期の伸びには達しないものの、全国的にみて、依然高いものとなっている。これは、(1)埼玉県が首都東京に隣接していることから、都市化が急激に進んだこと(2)若年労働者を中心に、他都県から流入が相次いだこと(3)こうした若い人たちが結婚し、子供が生まれたこと----などによる。このようなことから、"埼玉は若い"というのが大きな特色である。平成10年1月1日現在の人口調査結果報告によると、県民の平均年齢は38・3歳(男37・6歳、女39・1歳)となっている。」

 東京都と隣接する所沢市は、所沢インターで関越自動車道、国道16号経由で中央自動車道につながる至便な物流環境になっております。
本社を所沢駅東口に構える西武鉄道は、南埼玉から都心一帯に、隙間なく敷いた鉄道網とバス路線で、地域住民の日常の生活はもとより、都心への通学、通勤を容易かつ便利なものにしております。そして四季を通じて自然が豊富な多摩地域へ、多くの観光客を呼び寄せ、フランチャイズを所沢に置くプロ野球球団を傘下に持つことは、どなたもご存知のことです。ですから、"所沢"と聞くと、直ぐに球団の名前が頭に浮かんでしまうのは、私だけではないと思いますが、皆さんは如何でしょうか。

 今回の見聞録の取材で訪問した所沢市は、このような環境のなかで発展して来て、丁度、西暦2000年に市制50周年を迎える血気盛んな"若い都市"なのです。

 山車見聞録の取材には、今までは近くであっても鉄道の乗り物を使うようにしておりました。訪問先の市町の玄関は、鉄道の駅が普通でして、祭礼の時などは特に、駅のロビーや駅前通りの飾り付けなどが祭りの雰囲気を盛り上げてます。そんな様子を見るのが嬉しいのと、どこの市町でも大概、祭りの案内パンフレットを駅頭で配ってますので、それが欲しい為です。

 今回の所沢訪問はマイカーで出掛けましたが、祭礼時の街中の交通規制や駐車難を想定して、所沢市へは車で直接入らずに、隣町の狭山市入曽(いりそ)で車を預け、西武新宿線入曽駅から電車に乗り、所沢駅へ向かいました。余談ですが、訪問した10日の2日後に、この乗車した駅近くの西武新宿線でトレーラーの踏切事故がありましたが、その時でなくてよかったと思ってます。

 駅頭で、所沢まつり特集と印刷された民間の発行の「所沢ニュース」と、商工祭本部発行の催事スケジュール一覧表と山車の引き回しで車輌通行止めとなる中心街の街路地図が載った「ところざわまつり」の案内パンフレットが手に入りました。
「所沢ニュース」によりますと、明治初期に山車の曳き廻しが行われ始め、後期頃から所沢神明社の秋の祭礼に各町内から山車が集まった。

 戦後は、昭和25年の市制施行祝典での祭礼時に、市制施行から3周年目の昭和28年に実施した祝典の祭礼以降は、5年毎に山車まつりと呼ばれた「大祭」が行われ、山車が曳かれていたが、5年のスパンでは間隔が空き過ぎて、お囃子の後継者も育たないという意見が出され、商店街の活性化の目的も兼ねて、「大祭」の間に、商工祭「ところざわまつり」を実施するようになった、とのことです。今年は商工祭ですが、来年は市制施行記念の「大祭」になるのでしょう。

 
 大手デパートと大手スーパーが向き合う駅西口前のロータリー左隅には、特設ステージが設けられて、そこから大きなロックのリズムが響いておりました。祭りスケジュール表の「駅西口ロータリーイベント」と書かれた項目には、笛、太鼓の居囃子ではなく、[ジャズ、ロックバンド] 12:00〜20:30 と、ちゃんと載ってました。さすが、若者の多い都市の祭りだからでしょう。
 反対側のロータリー右手側は商店街で、その入り口のモニュメントが変わってました。現代彫刻を連想させる奇抜な形であるだけでなく、商店街の名前が銀座通りとかではなく、横文字でした。見た瞬間は、何て読むのかなと、思ったのですが、手元のパンフレットにプロぺ通りとあったので、解りました。

 この "PROPE"の意味が何なのかは、家に帰って、このプロペ商店街のホームページを見る迄は、解りませんでした。
 しかし、所沢まつりの飾り幕や幟旗が、商店街にびっしり飾られていて、流石 商工祭だなぁ、と、その意気込みと、日曜日の祭日でもあり、当然人出は多いのでしょうが、人通りの賑わいには驚きました。
 プロぺ商店街は、道幅はそれほど広くありませんが、目障りな電線は見あたらず、道端や店前に空箱などが乱雑にごちゃごちゃと置かれてなく、すっきりと整頓されている綺麗な街並みでした。大手都市銀行、証券会社や大型店も軒を並べ、商店の構えも立派で、商品も豊富で、どの店も明るく、活気がありました。
 最近は各地の商店街で、廃業でシャッターの閉まったままの店が多くなってますが、このプロぺ通りはそんな様子はなく、商売繁盛を感じさせる雰囲気で一杯でした。駅前のロックのリズムや都心の渋谷を連想させるセンスの佳い街頭に、大勢の人達が集まってくるのでしょう。いやぁ、こんな商店街もあるんだと、内心驚きました。

 "さぁ、いよいよ山車とご対面だ!"

 肩が触れる程の人波のプロぺ商店街を抜けると、昭和通りのダイエー前に出ました。
 そこで、最初の山車との出会いとなりました。御幸町の山車です。見た外観からすると、形式的には、関東地域での一般的な呼び名の"屋台"ですが、駅前で貰った「ところざわまつり」のパンフレットの記述も"山車"となってます。念のため、祭り衣装を着けた若衆に呼び名について質問しましたら、所沢では、屋台と云わずに、「だし」と呼んでおります、との答えでした。

 又、祭りスケジュール表の<銀座通りでの "山車の引き回し(統一行動)"> と書かれた山車の一斉巡行時に、祭り本部前を通過する各山車の紹介で、本部のウグイス嬢の解説アナウンサーは、それぞれ全てを「だし」と呼んでおりました。

 屋台をどうして"だし"と呼ぶのだろう? この疑問は、この日、家に帰り、所沢市のホームページを見て、なるほど、そうだからなのか、と納得が出来ました。自分なりに出した回答は、このページの後段の"所沢市指定文化財の御幸町の山車"のところで、申し上げます。

 この御幸町の山車の周囲に大勢の人だかりが出来ておりましたが、なぜかお囃子の音がしないで、代わりに軽快なリズム音が賑やかに鳴ってました。よく見ますと、山車の前の人の輪の中で、お囃子ではなく、大きなラジカセから流れる軽快なリズムの曲に合わせて、祭り衣装や浴衣姿の人達が身振りよろしく、手拍子、足拍子の踊りをやっている最中でした。所沢市の祭り音頭かもしれませんが、マイクをもった音頭取りの人が"さぁ、さぁ、みなさん、皆さん 輪になって踊りましょう、との掛け声で煽りますから、祭り衣装を着ていない一般の見物客も飛び入りして、それは賑やかなものでした。ところざわ祭りは、この様な、山車の巡行以外のイベントが盛り沢山に用意されており、市民全員参加のお祭り、商工祭なのでした。祭りの開会式が行われるなどは、作者の住む群馬の高崎まつりと同じで、祭りに開会式なんて、何ともユーモラスなことです。

 "所沢市指定文化財の御幸町の山車"

 所沢市の御幸町の山車は、明治の初め頃に八王子で造られた八王子型と呼ばれる山車です。八王子型とはどんな山車のことを、こう呼んだのでしょうか。江戸の山車屋台の変遷を辿ってみました。

 江戸時代に徳川将軍のお膝元の江戸市中で、"天下まつり"として目覚ましい発展をした江戸祭礼の代表的な曳き山であった踊り屋台の様式が、関東周辺の町々にも取り入れられ、所沢市の属する埼玉県でも、埼玉北部の熊谷市、深谷市、花園町など、北関東周辺の各地で、多くの踊り屋台が造られました。埼玉県秩父では、江戸の"天下まつり"当時の大型で絢爛豪華な曳き山の姿を現代に伝える国指定文化財の立派な踊り屋台が、今も活躍しておることは、誠に素晴らしいことです。

 永い江戸祭礼の曳き山の発展のなかで、屋台、山車のいろいろな形式が出現しました。そのひとつに、5月の端午の節句の鯉のぼりで、鯉と一緒に掲げる円筒形の"吹き流し"に似た「吹貫(ふきぬき)」を付けた一本柱を、土台に載せて曳き廻した吹貫型と呼ばれる山車がありました。江戸"天下祭り"では、吹貫を付けた柱の先端に露台を設け、動植物(鶏、猿、鼠、榊、松や竹、大根など)や人形(武者、鍾馗、神功皇后など)を載せて、祭神降臨の依代(よりしろ)とした形式の「一本柱吹貫型山車」が、屋台と一対になって、江戸の各町から曳き出され、江戸の街なかを賑わしたのです。

 この一本柱吹貫型山車などの江戸風(江戸型)の山車に真似て、屋台の屋根に穴を明け、先端に露台をつけた柱を立てた形の屋台が、江戸末期から明治の初め頃に、八王子を中心にした多摩西部や埼玉県南部地方で、多く造られたのです。これが八王子型と呼ばれる理由です。脇障子があり、屋台前部の舞台の前と両側に勾欄があるが、後側には勾欄がないなど、江戸踊り屋台の影響が強い形式の屋台です。

 東京都八王子市の教育委員会発行の「八王子の山車」の冊子(副題が、八王子文化財調査報告書4)の中で、八王子周辺に分布する唐破風屋根で、先端に露台をつけた柱を立てた形式の屋台を、「単層唐破風一本柱建て人形山車」と定義しております。この見聞録では、この形式の屋台を「八王子型人形山車」と呼ぶことに致します。尚、八王子型人形山車では、先端の露台を盛留(もりどめ)と呼んでますが、街路に電線が出現した以降、山車の運行の支障になった盛留は、次第に掲げられなくなってしまいました。

 所沢市の御幸町の山車は、明治の初め頃に八王子で造られた盛留のある八王子型山車そのものであることがわかりました。

 この画像は、所沢市役所のホームページの中で、所沢市指定文化財の紹介ページに、御幸町の山車が、一本柱の先端に盛留を付けた完全な姿の画像で紹介されております。なかなか普段は見ることの出来ない貴重な画像ですので、所沢教育委員会文化財保護課さんのご了解を得て、ここに転載させて頂きました。盛留を掲げると、山車が一層、格好よくなります。それにしても、大きな盛留を乗せた柱を、どんな具合にして立てるのか、興味があります。
 尚、併記の御幸町山車の由来は、「破風板裏面の墨書から明治6年9月に製作されたことがわかります。その後西多摩郡石畑村が八王子から購入、さらに明治43年に所沢町下町(現御幸町)が石畑村から購入したもの。江戸人形師の三代目 原 舟月作の関羽と張飛の人形や、彫刻と地紋で全体を飾った山車はなかなか見事です。」と、紹介されてます。

 盛留を付けてない御幸町の山車の屋根の部分です(99/10/10撮影)。屋根の頂きの棟の後ろ半分(画像では棟の左半分)が欠けているのは、盛留の柱を立てる為の必要からでしょう。

 拙作の山車見聞録の「八王子まつり」の中に、今、実際に運行されている八王子型人形山車の画像がありますが、屋根に盛留を建てた台座は残ってますが、盛留そのものはありません。ご参考迄にご覧下さい。

 所沢の皆さんが、屋台ではなく山車(だし)と呼ぶのは、屋台を譲り受けた八王子地方での呼称が屋台ではなく、山車(だし)であったので、そのまま、"だし"の呼称が、所沢でも一般化したのかも知れません。それと、八王子型は、一本柱吹貫型山車と、踊り屋台の折衷型で、祭神が降臨する依代(よりしろ)を持つのですから、山車と呼んでも何ら、差し支えはないと思います。それにしても、盛留が今でも保存されておるのなら、盛留を掲げたフル装備の正装した御幸町の山車を、実際に観覧したいものです。西暦2000年の所沢市制50周年記念の大祭では、人形の乗る盛留を掲げた山車を見せて欲しいものです。

"御幸町の山車"のスナップ

 御幸町は、今年の年番町になってます。各町の先頭に立って、山車の巡行を盛り立てねばなりません。そんな意気込みが感じ取れる御幸町の山車の様子を紹介します。
先ず、洗練された舞いが素晴らしかった。 お囃子に乗って、手拍子、足拍子でトントンと軽やかな身振りで踊る動作があまりに見事なので、こちらに振り向く翁の面の表情が生き生きしていて、本物の顔の様に見えてくるほどでした。同様に、二人の"おかめ"の舞も愛嬌があり、よかった。
 次に、衣装や道具立てが上手です。山車そのものは、漆、金箔の極彩色で飾られておりませんが、囃子方の衣装から提灯、飾り紐などの道具立てに、形や配色にいろいろな配慮や工夫が感じられ、統一の採れた品のある綺麗な山車に仕上げておるのに、感心しました。 舞や余興の踊り、衣装や調度品で、山車の巡行を盛り立てる工夫をして、観客に如何に喜んで貰うかを真剣に考えておられる様子が想像できました。

 このことは、御幸町に限らず、今回見聞した所沢の各山車全てに共通して見られることで、素晴らしいことだと思います。山車祭りを観客に悦んで貰える様にするには、どうすればよいかと、真剣に取り組んでおる様子が全ての山車に感じられました。祭礼は、演出が大切だと、つくづく思いました。

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