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城端曳山祭出場の6基の曳山・庵屋台と山車(やま)の画像 

拙作のこの祭り見聞録の趣旨は、祭りを現地で実際に見物して、現地の皆さんの祭りへの取り組み姿勢を眼で見て、曳山の曳き手衆や山町役員諸氏から直にお話を聞き、祭り資料を収集し、現地の地理的環境や歴史を知り、山町の人たち皆さんの生活の様式を肌で感じて、今、行われている曳山祭りの姿を、管理者の感想とともに、広く祭り愛好家の皆さんへお伝えしようとするものです。

このページに掲載の画像は全て、管理者が撮影したものですが、その画像に添えられています庵屋台、山車(やま)、傘鉾の解説は、現地で戴いたパンフレット「城端曳山祭」の内容をそのまま転載させて頂きました。


巡行 1番山大工町だいくまち千枚分銅山せんまいぶんどうやま
御神像関羽・周倉かんう・しゅうそう

「大工町の曳山は「関羽と周倉像」を安置する千枚分銅山です。享保年間に作られた原作は、明治31年(1898)に大火で消失。明治39年に復元、再造されました。 構造は輻車(やぐるま)の車輪、四方唐破風の屋根、平天井で、高さは6.34mです。他の曳山のように長年にわたる増補・改造の積み重ねでなく、一貫した設計に基づいて作られたので、形態も均整が取れています。 見返し(後屏)は、一般に「須佐之男命大蛇退治図」といわれていますが、謡曲の「張良」から取材した図であるともいわれます」

「御神像 関羽は三国時代の蜀漢の武将で、劉備・張飛と義兄弟の約を結びました。容貌魁偉、美髯を有し、義勇をもって劉備を助けました。 後世、人びとは諸所に廟を建ててまつり、また、財神としても信仰を集めました。周倉は勇猛な関羽の武将です。 寛政8年(1796)に荒木和助が「主従二体様式」の新機軸によって作成したものです。 大工町では当初、千枚分銅を模した造形を御神体として安置していたのではないかと伝えられています。「千枚分銅」の名称もこれに由来したものといわれます」

「庵屋台 平安貴族在原業平の別荘を模した庵屋台で、原作は明治31年の大火で消失しましたが、明治41年に復元しました。前後の庵を風流な橋で結び、周りにおしどりとかきつばたの造り物を配して、池畔に面した公卿屋形の趣をかもしだしています。屋台の高さは3.06m。 庵唄をうけもつ若連中は「冠友会」といいます 」


「傘鉾 神霊をお招きする傘の上には、木製張子細工の「千枚分銅」を飾ります。水引幕は紫地に千枚分銅とかきつばた文様を白抜きに染めています」

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巡行順番 2番

西上町にしかみまち「竹田山たけだやま御神像恵比須えびす

「西上町の曳山は「恵比須像」を安置する竹田山です。原作は享保の初めごろで、安永年間に7代小原治五右衛門林好が作りかえました。その後、嘉永元年(1848)に9代・10代治五右衛門が上壇などを一部増補・改修したほかは、ほとんど手を加えず、城端曳山の原型を保っています。 構造は、板車の車輪、四方一文字軒、入母屋造りの屋根、折上平天井で、高さは5.71mです。神座に見返し(後屏)がないのはこの曳山だけで、簡素で優美な作風がうかがえます。装飾は、水波紋様や恵比須の紋の「蔓柏(つるかしわ)」の意匠が多く使われています」

「御神像 恵比須は七福神の一つで、もとは兵庫県西ノ宮の祭神であったといわれています。海上・漁業・商業などの守護神で、風折烏帽子をかぶり鯛を抱いた姿に描かれています。城端曳山の御神像の中では唯一の日本の神様です。 御神像は以前に7代小原治五右衛門林好の作のものがありましたが、明和8年(1771)に八尾の西町へ譲渡したと伝えられています。 現在の御神像は、寛政7年(1795)に荒木和助が作ったものです。明和8年から寛政7年までの24年間には御神像が不在であったのか、疑問とされています」

「庵屋台は、7代小原治五右衛門が、京都祇園の一力茶屋を模したものと伝えられます。今の庵屋台は、京都の料亭を模した数寄屋造りで、大正4年(1915)から翌年にかけて竹下理三郎により新調され、昭和31年(1956)に近代城端塗の粋を集めて塗りあげられたものです。庵唄をうけもつ若連中は「恵友会」といいます」


傘鉾 神霊をお招きする傘の上には、「争鈴と玉手箱」が三方の上にのせられています。水引幕は紫地に恵比須の象徴である「蔓柏紋」が染め抜かれています。

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巡行順番 3番

東下町ひがししもまち東耀山とうようやま御神像大黒天だいこくてん

「東下町の曳山は「大黒天像」を安置する東耀山で、福寿山とも呼ばれています。曳山の原作は享保年間で、その後の修繕、増補によって形態・構造が拡充されました。構造は、輻車(やぐるま)の車輪、前後唐破風の屋根で、高さは5.54mあります。天井に格(ごう)天井の手法を用いているのはこの曳山だけで、格縁に16弁の菊紋金具が打ってあります。装飾は大黒天にちなんで、宝珠・宝くずしなどの文様が多く見られます」

「御神像 大黒天は、密教では、自在天の化身で、仏教の守護神。戦闘神あるいは忿怒神、後に厨房神とされており、また、七福神の一つ。その姿は、頭巾をかぶり、左肩に大きな袋を負い、右手に打出の小槌を持ち、米俵を踏まえています。大国主命と習合して民間信仰に浸透しました。安永3年(1774)荒木和助が彫造し、従来までの黒大黒天像と取り替えました。神座の両脇座に操り人形の「ラッパを吹く人形」と「逆立ちかるわざ人形」を配しています。いずれも明和2年(1765)初代荒木和助によって作られたものです」

「庵屋台 小づくりな庵屋台で、平屋建て二棟構えの数寄屋造りです。他の屋台の胴廻りは、水引幕で囲いめぐらされていますが、この庵屋台では格子造りの構造で、格調高い江戸情緒を漂わせています。庵の下の重(じゅう)には10枚の欄間彫刻が入れてあります。高さは3.02mです。庵唄をうけもつ若連中は「宝槌会(たから連)」といいます」


「傘鉾 神霊をお招きする傘の上には、大黒天にちなんで「打出の小槌」が飾られています。 水引幕は青色地に宝くずし文様が染められています」

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巡行順番 4番

出丸町でまるまち 唐子山 からこやま御神像布袋ほてい

「出丸町の曳山は、「布袋像」を安置する唐子山です。曳山の原作は享保5年(1720)で、高砂山と称され、「尉と姥」を安置しましたが、宝暦12年(1762)布袋山に改められ、さらに唐子山と称されるようになったと伝えられています。 構造は、板車の車輪、前後唐破風の屋根、平天井で、高さは6.27mです。彫刻・金具などの装飾は唐子遊び・宝くずしなどの文様が多く見られます。 見返し(後屏)の「司馬温公瓶割の図(しばおんこうかめわりのず)」は、一位材白木彫りの高肉レリーフで、明治45年(1812)に作られました」

「御神像 布袋は唐代の禅僧で、四明山に住み、容貌は福々しく、体躯は肥大で腹を露出し、常に布ぶくろを担って喜捨を求めて歩いたと伝えられています。世人は、弥勒の化身と尊び、その円満の相は好画材として多く描かれ、七福神の一つとされています。 原作は、宝暦12年の荒木和助の作ですが、弘化3年(1846)9代小原治五右衛門が首や手足を修復し、胴と団扇を新調しました。 脇人形として高砂山の人形の尉を「旗持唐童子」、姥を「笛吹唐童子」に改造。また、「梯子渡人形」もからくりに仕立てて飾られます」

「庵屋台 平屋建て、二棟構えの数寄屋造りで、明治32年(1899)に修復し、庵と水引幕の間に、他の木彫刻のものと違った、簡略で風情のある寄せ造り物の欄間をはめこんでいるのが特徴で、町内有志が共同でつくったものです。 屋台の高さは、3.20mです。庵唄をうけもつ若連中は「布袋同志会」といいます」


「傘鉾 神霊をお招きする傘の上には、「将棋盤に柳」、傘の中には「冠に蛙」の作り物を飾ります。水引幕は赤色地に柳・蛙・波紋文様が染められています。 」

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巡行順番 5番

西下町にししもまち諫鼓山かんこやま御神像堯王ぎょうおう

「西下町の曳山は「堯王像」を安置する諫鼓山です。原作は享保年間で、年代を経て随時修繕、増補され、嘉永年間から明治・大正時代への改修され、今日の曳山が形成されました。構造は板車の車輪、三方唐破風の屋根、平天井で、高さは6.18mです。屋根幅を縮めるとき、他の曳山では軒を折り上げますが、この曳山は正常な形を保ちながら軒をせり上げるという、特異な装置が仕組まれています。 見返し(後屏)の「竹に鶏」の浮彫にも見られるように、装飾には「鶏」の文様が使われています」

「御神像 堯王は、中国古伝説上の聖王で、舜斗並んで中国の理想的帝王とされています。諫鼓とは君主に対して諫言しようとする人民に打ち鳴らさせる太鼓です。堯王は善政を施したので諫鼓を用いることがなく、鶏が太鼓に巣を作ったほどであったといういわれにちなんで諫鼓山と称されました。御神像は享保元年(1716)、木屋仙人(木屋五郎右衛門)が彫造し、明和3年(1766)、荒木和助、木屋儀右衛門、木屋九平の3人によって修復され、曳山人形の中では最も古いものです」

「庵屋台 西下町には文政5年(1822)以来の庵唄稽古番の記録があり、庵屋台の起源も古いといえます。現在の庵屋台は、明治22年(1889)に新調したもので、数寄屋造りの二階建、主屋、離れ二棟の料亭を模した庵で、設計は3代山村十右衛門です。屋台の高さは3.29mです。庵唄をうけもつ若連中は「諫鼓共和会」といいます」


「傘鉾 神霊をお招きする傘の上には、「太鼓に金鶏」の造形をのせ、諫鼓鶏にちなんだ飾りです。傘のまわりに下げる水引幕は、黄色地に鶏丸文様が染められています」

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巡行順番 6番

東上町 ひがしかみまち鶴舞山つるまいやま御神像寿老じゅろう

「東上町の曳山は「寿老像」を安置する鶴舞山です。享保年間に作られた曳山は、安永年間に7代小原治五右衛門によって改作され、その後も代々の手が加えられました。明治40年(1907)に、城端で一番大きな輻車(やぐるま)を新調、鶴舞模様の金具をつけ、塗装も施して曳山を大型に改造しました。さらに、明治45年には、屋根も豪華な二重構造に改造され、高さは6.52mです。 見返し(後屏)は、高肉彫刻で、寛政3年(1791)に初代荒木和助が作った唯一のレリーフです」

「御神像 寿老は宋代の仙人で、長頭の老人で杖をたずさえ、杖の頭に巻物をつけ、うちわを持ち、鹿をつれていたといいます。七福神の一つで長寿を授けるとされています。同じ七福神の一つで、短身、長頭の福録寿と同体異名の神とされ、福禄寿が鶴を従えたことから、これにちなんで鶴舞山と称したのではないかといわれています。 寿老像は安永2年(1773)、荒木和助によって作られました。昭和28年(1953)に14代小原治五右衛門が修復しています。脇人形に「綾織人形」が飾られ、カラクリで手と顔を動かして舞います」

「庵屋台 原作は7代小原治五右衛門の作と伝えられますが、文政8年(1825)から天保5年(1834)の間に大改修され、9代小原治五右衛門らの手で塗漆されました。江戸の料亭を模したもので、新吉原の「大文字屋」「鶴屋」「扇屋」「玉屋」の暖簾が入り口にかけてあります。高さは3.45mです。 庵唄をうけもつ若連中は「松声会」といいます」


「傘鉾 神霊をお招きする傘の上には、「金の鶴に岩波」の彫刻を飾っています。水引幕は上部を朱色、裾を雲形文様に染め、三つ巴紋を配しています」

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