江戸時代の高崎藩の頃まで遡って、
高崎の祭礼を考察した高崎市の資料 高崎市史民俗調査報告書 第6集 「旧市域の祭りと町内会」に、高崎のまつりの今日までの
歩みが報告されてます。高崎市の好意で引用してありますので、お立ち寄り下さい。
しかし、長文ですのでその内容の骨子を以下に記述しました。尚、具体的な年月日
や山車の数は、同じ調査報告書 第6集の中の「旧市域の祭りと町内会」の中にある「
年次別の祭りに山車を出場した町内」の一覧表を参照しました。
昭和20年の終戦後、幾年か経ってから、商店街の復興を
願って、八坂神社(現、高崎神社)の高崎祇園商業祭が昭和30年代まで毎年7月に行
われた。また、護国神社の例大祭である高崎奉納祭が10月に行われた。高崎市の意向
で奨められたのが、昭和24年(1949年)の4月9,10に行われた市制50周年記念
の祭りであった。この祭りで、昭和20年代になって初めて、多くの町内で山車を出し
たが、それでも21台位(推定)の参加であった。
昭和30年10月15,16の近
隣5か村合併記念高崎祭りで26台位(推定)、昭和34年4月の皇太子ご成婚記念で
は7台でしたが、昭和36年7月22、23の市制60周年記念では、その時、山車を
保有する全町内が参加したので、35台の勢揃いであった。昭和45年(1970年)7月
25、26の市制70周年記念高崎祭りでは34台の参加でした。祭りの内容も、初日
のオープニングセレモニーでの、鼓笛隊のパレードや仮装行列が祭りの雰囲気を高揚さ
せ、会社企業の企業御神輿が増えたのもこの頃からであった。
市制70周年記念高
崎祭りのころより、市民全員参加の、市民のための祭りを続けよう、との意見が出て、
「市民手作りの祭り」のスローガンでもって、昭和50年(1975年)市制75周年記念
祭りから、"高崎ふるさと祭り"と祭りの呼称を変え、毎年8月の実施となった。この年
の第一回高崎ふるさと祭りには、山車は23台参加し、2回、3回迄は19台、22台
の山車が出た。
昭和55年(1980年)第6回ふるさと祭りは、市制80周年記念で
もあったので、34台の山車が参加したが、その前後の4、5、7、8回は、山車の参
加は5、6台であった。しかし、山車の少ないときは、御神輿が人気で、町内御神輿に
加えて、企業みこしや大学みこし、こども御輿も参加して、真夏の熱気を盛り上げた。
昭和58年(1983年)の第9回ふるさと祭りは、群馬県で初めて国体が開催された
記念の年で、山車は27台参加した。だが、翌年の第10回ふるさと祭りにはわずか1
台であった。市、町内、山車保存会、青年会議所、商店会などの関係者の協議で、翌、
昭和60年(1985年)第11回の祭りから、山車保有町内がそれぞれ隔年毎に山車を参
加させることに決まった。
総数36の山車保有町内を南、東、北、中央の4地区に
分け、南、東の2地区と北、中央の2地区が大きな2つのグループとなって、隔年の輪
番で、山車を出すことにした。祭りの呼称も、"高崎まつり"と改称した。特別の行事
(市制記念など)の年は、全地区が参加する事になっていたので、平成2年(1990年)
の市制90周年記念高崎まつりには、全部の山車保有町内が山車を出したので、36台
の山車の偉容が祭りを一層、賑わしました。しかし、残念のことですが、平成5年2月、南地区の下横町(しもよこちょう)の山車倉が貰い火で、収納されていた山車の一部焼
損の事件があり、出場当番の昨年(平成8年)も出てませんので、修復が遅れているよ
うです。
第11回の高崎まつりからは、隔年の輪番制が定着して、17台又は、18台の山車が毎年参加するようになった。
第26回になる高崎まつりの西暦2000年(平成
12年)の市制100周年記念祭りが今から楽しみだ。