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"道祖神(どうそじん)祭り"と"道祖 神屋台"

松 小 屋

成田山は、成田町の子供達の絶好の遊び場で した。いやぁ〜ん,今の子供達のことではありません。ウン十年前の私が子供の頃の 話です。どんなことをして遊んだかの話は又の機会として、一番楽しかった記憶になっ ているのが松小屋です。正月の七草が過ぎると、自分の家、近所の家の玄関、門、通用 口に飾り付けてある門松を貰い受け、成田山の境内に大人の背丈ほどの柱を幾本か立て て、横に張った縄に松を幾重にもぶら下げて壁や天井にして、6畳位の小屋を仕上げる が無情の楽しみでした。何か自分達の城が出来たような嬉しさがありました。仲間と小 屋の中で太鼓を叩いたりして、お正月の楽しい行事の一つになってました。近所の別の 町内の松小屋の様子を覗きに行くのも楽しみで、場合によっては他の小屋の松を外して 持ち帰るスリルを経験したものでした。その頃は、松小屋を作っただけでしたが、それ より以前では道祖神屋台も作ったのだそうですが、私の子供の時代には、もう道祖神屋 台はありませんでした。松小屋で太鼓を叩くだけでした。

道祖神祭りと道祖神屋 台

道祖神の碑

最近は見かけなくなりましたが、私の子供の頃は高崎の郊外の道路沿いの 樹の陰などに、道祖神と彫った石碑か、小さい仏像を彫った石碑が置いてありました。 昔から無病息災、旅の安全などの願いごとを叶えてくれたらしく、時には供物が添えて あることもありました。各町内の道祖神祭りは、昔からの道祖神を祭る習慣が発展した ものと思われます。明治、大正から昭和の終戦迄は、町内によっては、一般の輸送に使 われていた大きな2輪の荷車(大八車)を2台繋ぎ合わせて、それに囃子台を設け、太 鼓を載せ、荷台に柱を立てて装飾幕を垂らして造花や旗、幟で飾ったその場限りの屋台 を作って町内を巡回したのが道祖神屋台でした。この道祖神屋台のお話は、成田町の4 人の区長さんの中で一番の大御所といわれて、人気のある新井区長さんから伺ったお話 です。ここから、また私の記憶に戻ってのお話ですが、道祖神祭りのフィナーレは、小 正月の15日の朝、松小屋を解体した松に火を着けるか、場所によっては解体しないで 小屋に火を放って、その炎で身体を暖めると一年中病気をしないと信じられてました。 また、米の粉で作った繭玉を木の枝の先に沢山刺して、スルメイカと一緒に松の火で焼 いて食べたのをよく覚えてます。そうすることで家内安全の願いが叶えられたのです。 この様にして縁起物の門松や家の神棚に飾ってあった去年のダルマやお札などを持ち寄 って、神聖な火で始末をするという先人の知恵に改めて敬意を表するものです。この行 事は別名"どんど焼き"とも云われました。

"高崎まつり"

高崎の祭りの歴史


江戸時代の高崎藩の頃まで遡って、 高崎の祭礼を考察した高崎市の資料 高崎市史民俗調査報告書 第6集 「旧市域の祭りと町内会」に、高崎のまつりの今日までの 歩みが報告されてます。高崎市の好意で引用してありますので、お立ち寄り下さい。
しかし、長文ですのでその内容の骨子を以下に記述しました。尚、具体的な年月日 や山車の数は、同じ調査報告書 第6集の中の「旧市域の祭りと町内会」の中にある「 年次別の祭りに山車を出場した町内」の一覧表を参照しました。


昭和20年の終戦後、幾年か経ってから、商店街の復興を 願って、八坂神社(現、高崎神社)の高崎祇園商業祭が昭和30年代まで毎年7月に行 われた。また、護国神社の例大祭である高崎奉納祭が10月に行われた。高崎市の意向 で奨められたのが、昭和24年(1949年)の4月9,10に行われた市制50周年記念 の祭りであった。この祭りで、昭和20年代になって初めて、多くの町内で山車を出し たが、それでも21台位(推定)の参加であった。

昭和30年10月15,16の近 隣5か村合併記念高崎祭りで26台位(推定)、昭和34年4月の皇太子ご成婚記念で は7台でしたが、昭和36年7月22、23の市制60周年記念では、その時、山車を 保有する全町内が参加したので、35台の勢揃いであった。昭和45年(1970年)7月 25、26の市制70周年記念高崎祭りでは34台の参加でした。祭りの内容も、初日 のオープニングセレモニーでの、鼓笛隊のパレードや仮装行列が祭りの雰囲気を高揚さ せ、会社企業の企業御神輿が増えたのもこの頃からであった。

市制70周年記念高 崎祭りのころより、市民全員参加の、市民のための祭りを続けよう、との意見が出て、 「市民手作りの祭り」のスローガンでもって、昭和50年(1975年)市制75周年記念 祭りから、"高崎ふるさと祭り"と祭りの呼称を変え、毎年8月の実施となった。この年 の第一回高崎ふるさと祭りには、山車は23台参加し、2回、3回迄は19台、22台 の山車が出た。

昭和55年(1980年)第6回ふるさと祭りは、市制80周年記念で もあったので、34台の山車が参加したが、その前後の4、5、7、8回は、山車の参 加は5、6台であった。しかし、山車の少ないときは、御神輿が人気で、町内御神輿に 加えて、企業みこしや大学みこし、こども御輿も参加して、真夏の熱気を盛り上げた。

昭和58年(1983年)の第9回ふるさと祭りは、群馬県で初めて国体が開催された 記念の年で、山車は27台参加した。だが、翌年の第10回ふるさと祭りにはわずか1 台であった。市、町内、山車保存会、青年会議所、商店会などの関係者の協議で、翌、 昭和60年(1985年)第11回の祭りから、山車保有町内がそれぞれ隔年毎に山車を参 加させることに決まった。

総数36の山車保有町内を南、東、北、中央の4地区に 分け、南、東の2地区と北、中央の2地区が大きな2つのグループとなって、隔年の輪 番で、山車を出すことにした。祭りの呼称も、"高崎まつり"と改称した。特別の行事 (市制記念など)の年は、全地区が参加する事になっていたので、平成2年(1990年) の市制90周年記念高崎まつりには、全部の山車保有町内が山車を出したので、36台 の山車の偉容が祭りを一層、賑わしました。しかし、残念のことですが、平成5年2月、南地区の下横町(しもよこちょう)の山車倉が貰い火で、収納されていた山車の一部焼 損の事件があり、出場当番の昨年(平成8年)も出てませんので、修復が遅れているよ うです。

第11回の高崎まつりからは、隔年の輪番制が定着して、17台又は、18台の山車が毎年参加するようになった。

第26回になる高崎まつりの西暦2000年(平成 12年)の市制100周年記念祭りが今から楽しみだ。

"第22回高崎まつり"


高崎市史民俗調査報告書の記述にありますように、高崎の 祭りは国や市の記念行事に賛同して開催されてました。昭和50年(1975年)の第1回  高崎ふるさと祭りを皮切りに、以降毎年,高崎のお祭りが開催されることになりました 。昭和60年(1985年)の第11回から祭りの呼称を「高崎まつり」と変更して、平成8年(1 996年)は 第22回の高崎まつりとなってます。この第22回の高崎まつりの内容をNTTの ハローねっとジャパン群馬発でご覧下さい。

"第23回高崎まつり"


 今年の高崎まつりの山車巡行の当番は中央と北の両地区の 担当でした。北地区は7つの町で山車を持ってますが、7つの町のひとつの本町(もと まち)は一丁目、二丁目、三丁目で、それぞれ山車を持ってますので、北地区の山車の 総数は9台になります。しかし、今年は北地区の中の相生町と本町一丁目が欠場しまし たので、北地区の山車は7台でした。中央地区は並榎坂下が欠場したので、8台となり ましたので、山車の総数は15台でした。第23回の 高崎まつり
 隔年毎に祭り山車を参加させる輪番制になってから、2年間の準備期間が持てること にもなったので、準備にも余裕がもてるようになって、山車があっても山車を出さない という町内は殆どなくなった。それでも、市街区域の町内では山車を曳く(ひ)いてく れる子供を確保するのが大変なのでのす。私が子供の頃は山車を曳きたくても子供の数 が多くて、曳き綱が持てないことがあったほどだしたが。私の住む成田町は昨年は休み でしたので今年は、山車を出します。成田町の山車は他の山車と比較すると山車のお化 粧である漆塗りや金箔,彫刻などの豪華さではやや見劣りがしますが、山車があるとい うことは幸せなことと思います。山車が無い町の子供が羨ましそうにしている 姿を時々 見ます。子供ばかりでなく大人でもそうかも知れませんね。

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